第四部 紫雲丸沈没



(一)生死の分かれ

 第3宇高丸は、紫雲丸の右舷側に激突、船首が紫雲丸の船腹に突入し、縦4.5メートル
横3.2メートルのくさび型の大破口があいた。
 衝突後、第3宇高丸は、紫雲丸破口からの海水浸入を防ぐため、船首を密着させたまま、
 全速力で紫雲丸を押しつづけた。そのため、紫雲丸は左舷側に横転し、左舷側から沈没し
た。
 衝突から沈没までわずか5分であった。
 この沈没により、庄内小学校関係では、男子生徒37名のうち6名、女子生徒40名のうち
23名、そしてPTA会長、合計30名が命を奪われた。
 次章の「(二)生存の記録」は、私たち生き残った者の生存の記録である。
 生存者のうち、川上紀男など4名は、幸運にも沈没までに第3宇高丸甲板に乗り移り、海
に沈むことなく助かった。
 川上紀男の手記によると、彼は第3宇高丸が衝突した右舷側甲板にいて、衝突後人の流
れに任せて階段を下り、途中で、「この先に行きなさい」という船員の指示どおり進んだところ
、第3宇高丸の甲板にいたという。彼は紫雲丸が沈没したことを知らず、眼下の海で大勢の
人が泳いでいるのを見て事態を知ったという。
 残りのものは全員海に沈んだ。
 この記録によっても、私たちが生き長らえ得たことは、まったく偶然であり、まさに危機一
髪の生存であったことが確認できる。

 助かった要因をあえて整理すれば、

①沈没時に甲板にいた。または甲板に脱出できていた。
②沈没までに頭部に打撲を負うなど致命的な傷を負うことがなかった。
③沈没後息絶えることなく海面に浮上できた。
④浮上した海面の近くに救命艇やパレットなどつかまることができるものがあった、または、
親切な大人に救われた

などの偶然、すべてに恵まれたものである。救命胴着を着用することができた者とでき
なかった者がいる。着用できた者は、海面浮上後救出されまでの時間が長くても助かって
いる。
 亡くなった友は、これらの偶然のいずれかに恵まれなかったということなのであろうか。
 沈没時の居場所について、男子生徒6名のうち、長井洋くん、栗原秀雄くん、長井巧くんの
3名は左舷甲板にいたことがわかる。日和佐辰雄くん、川上康くん、渡辺鬼志松くんについ
ては、手記中に記述がないが、恐らく同様の場所にいたと思われる。
 女子生徒については、生存者が少なく、亡くなった女子生徒がどこにいたのか判明しない
場合が多い。
 日野(山内)和子の手記によると、日野(山内)和子、西川(目見田)幸恵は右舷甲板にい
て、近くに山内恒子さん(犠牲者)がいたことがわかる。
 また、高橋(飯尾)多美子の手記に、「黒谷部落の2、3人がずぶぬれになって走ってきた」
とあり、長井タケミさん、長井秀美さん(いずれも犠牲者)は、右舷甲板にいて、衝突による
水しぶきを浴びたことがわかる。
 この後、彼女たちは、右舷から第3宇高丸に渡ろうとしたが、渡れないまま船とともに沈没
してしまったのである。
 高木(櫛部)清子は、青野節子さん、青野琴之さん、青野恭子さん(この三人は犠牲者)と
左舷甲板にいたが、衝突後一緒に船室にリュックなどを取りに戻り、混雑のなかで琴之さん
、恭子さんと離れ離れになり、節子さんと手をつないで甲板に出ようとしたところで船が大き
く傾き、節子さんとも手が離れてしまったと記している。
 女子生徒の多くが、衝突時に船室におり、船室の椅子などが体にぶつかったり、大人に
押されたりして、甲板に脱出できないまま船が沈没してしまったのだと思われる。

 生存者の記述で驚くことは、まず「必死で海底を蹴った」という記述が相当数見られることで
ある。
 事実であれば、現地は水深が約10メートルであり、船とともに相当深く沈んだことになる。
 よくぞ息が切れず浮上できたものである。左舷側は沈没時における船の下部であったので
、左舷側にいた生徒は、より深く沈んだのかも知れない。
 また、多くのものが、海中での記憶について、「息が切れると思いそのとき気持が楽に
なった」、「小学校の楽しかった生活が浮かんできた」、「両親にありがとうといった」などとい
う表現をしている。
 これは、「臨死体験」なのであろうか。
 人間が死に直面するとき、その瞬間は、苦しいものではなく、開放された楽な気持になる
のであろうか。
 亡くなった友、そしてPTA会長は、どのような想いされたのであろう。
 私たちのこの体験から勝手に期待をすると、せめて最後の瞬間だけは、海の中で小学校
の生活や両親のこと、そして青野会長は、奥さまのことなどを想いながら、苦しまれることな
くあの世に旅立てたのであろうか…・・。


(二)生存の記録(手記)

以下は各自の生存の記録である。

◎人口呼吸で助けられる            山内浩視

 船のなかを方々探索した後、私は左舷側の甲板にいた。一緒に、長井洋君、栗原秀雄君、
長井巧君(いずれも犠牲者)たちがいた。
 栗原君は下に降りる階段の手摺りに乗って座っていた。
 皆で海を見ながら「瀬戸内海には島が多いと聞いていたが一つも見えんねや」などと話
していた。左舷側の島は、少し遠くにあり、霧のために見えなかったのであるがそうとは
判らなかった。
 その時「ドカン!」という大きい音がした。同時に栗原君が手摺りから階段下に転落し
た。私はびっくりして急いで階段を覗いたが、大人の人達が血相を変えて階段を上ってき
て栗原君の姿が見えなくなってしまった。
 周りから蒸気のようなものが噴出してきた。私は何が起こったか判らず、その辺りを行
ったり来たりしていた。ボーイさんが「大丈夫、船は沈まないから!」と大声で叫んでい
た。
 周りの人達はみんな救命胴衣を着けていたが、私にはそれが何であるかが判らず「きっ
とお守りだろう」と思った。私も手に入れようと階段を降りて行くと、下にはもう海水が上がっ
てきていた。慌てて上に逃げる途中で黒川道明君と会い、黒川君が救命胴衣をくれた。
 それを腕に抱え皆が行く方向に走った。
 その時 甲板は少し斜めになっていた。皆が上へ上へと行くので私も上に行った。その時
船が大きく傾いて、私は甲板を滑り落ち海に投げ出された。手に持っていた救命胴衣はそ
の時外れた。
 私は、海の中でもがいていた。この日のために母が買ってくれた靴が脱げ落ちた。そし
てお弁当の入った鞄も落ちていった。
 海の中を浮いたり沈んだりしていたのだろう。頭が海面より上に出ると真暗で息苦しく
て海の中のほうが綺麗な淡い緑色で楽なような気がした。まさに生死の境を彷徨っていた
のだろう。そのうち、すっと沈んでゆき後は判らなくなった……。
 気がつくと男の人が私に乗って胸を押していた。後で判ったことだが人工呼吸をしてく
れていたのである。その人が「気が付いたか」と声を掛けてくれた。私は寒くて寒くて全
身で震えていた。誰かが毛布を掛けてくれたがその後は判らない。
 次に気がついた時は大きい船のベッドで注射をされていた。「もう一本しようか」と聞かれ
「もうええ」と答えた事を覚えている。
 旅館にどのようにして運ばれたのかは思い出せない。

◎ 投げ込まれた板につかまる         黒河 稔

 衝突のしばらく前、私は栗原秀雄くん(犠牲者)と話をしていた。最初はデッキのベンチで
話をしていたのだが近づいてきた中学生に場所をとられて階段の手すりのところにいって話
をしていた。
 運の悪いことに、栗原くんが手すりに腰をかけているときに衝突したので、彼はその反動
で真ッさかさまに階段の下に転落してしまった。相当な高さからの落下なので彼のことが心
配で、階段下を覗き込んでいたが彼は一向にあがってこない。そのうち、下の船室にいた大
人たちが大きな荷物を持って階段をあがってくるのに栗原くんの姿はなかなか見えない。
 じりじりした気持で待っていると、大人たちの脱出のピークが過ぎた頃、彼があがってきた
ので安心して船室にとって返した。
 そこでは、背の高い日和佐正二くんや真鍋寛定くんが、救命胴着を格納庫から取り出し
皆に配っていた。格納庫は高い場所に設置されており、背の高い日和佐くんや真鍋くんで
なければ取り出せなかったと思う。
 私は、船室から出るのが遅かったので、日和佐くんから配られた救命胴着を身に着ける
余裕とてなく、脇に抱えたまま傾く船の甲板を高い船首を目指して進んでいた。やがて船
が急激な反転をしたとき、その動きについていけず、既に海中に沈みかけていた後部へ甲
板上を滑り落ち、水面下に沈んだ。
 しばらく意識がなかったが、気がつくと夢中で水をかいて浮上しようともがいていた。
 やっとの思いで海面に出た私は、近くに宇高丸から救助のために投げ込まれた板まで泳い
でいった。
 そこには既に、児玉先生が乗っていて、庄内小学校の児童を見つけて海中に飛び込み助
け上げた。やがてボートが近づいてきて救助された。

◎ 力がぬけたとき海面に浮かぶ       長井武敏

 出航して15分ほど経ったときである。
 私は、友達と一緒にいた左舷甲板を離れ、右舷甲板に遊びに来ていた。
 その時、突然、黒い巨体が目の前に現れ、紫雲丸に突入してきた。
「ドカン!」
大音響とすごい衝撃が私を襲い、全身に波しぶきを浴びた。
「船がぶつかったぞ!」。
隣にいた大人の人がそう叫んだ。
 私は、瞬時に、全速力で友達のいる左舷甲板まで駆け戻った。
「船がぶつかったよ!」。
 私は、左舷甲板にいた友達に叫んだ。

 船中が、大騒ぎとなり、船室から甲板に人があふれ出てきた。
「大丈夫ですから慌てないで!」
という船員の声が聞こえた。同時に、必死に上部から何かを掻きだし、大人達がそれに群が
っている。救命胴着だったが、そのことを知らない私は、ただ唖然としているばかりであった。
 その直後、船は大きく傾き、私は、船もろとも海中に飲み込まれた。
 記録によると、衝突から沈没まで五分ということであるが、私には瞬時のことのように思わ
れる。
 深い海中、上部に何かつかえていて、もがいても浮上することができない。息が切れる。
 私は、ふと、
「このまま死ぬんだな」
という諦めの境地のようなものを感じた。体の力が抜け、恐怖心は無く、むしろなにか安堵感
のようなものがあった。
 今でも、死ぬ時の境地はあのようなものかと、ふと思うときがある。
 その瞬間、私は何かの具合で、スルスルと海面に浮上できた。
 すぐ先に衝突した第3宇高丸が停泊し、甲板からロープが垂れていた。私は、必死で泳い
でロープにしがみ付いた。
 第三宇高丸に引揚られた私は、船室につれていかれ、一枚の毛布を与えられ、
「風呂に入浴し、体を温めたあと部屋の隅のベッドで待機するよう」
指示された。
 待機中、次々と、救出された生存者が入室してきた。
 同時に、引揚られた犠牲者の遺体が運び込まれ、ベッドの側の床に並べられた。
 口から泡を吹いている遺体が多かったが、死顔はどちらかというと、透明で綺麗な気がした。
 私は、恐怖を感ずる余裕もなく、放心状態で犠牲者の姿を眺めていた。
 1時間ほどしてから、救助の船で高松市の若松旅館に運ばれた。
 今考えると、私は、衝突時に右舷甲板にいて、友達のいる左舷甲板まで駆け戻ったため、沈没までに船室に荷物を取りに行く時間が無く、、結果的に助かったのかも知れない。

◎ 二度と味わいたくない体験           青野 唯勝

 紫雲丸に乗ってしばらくしてから、何人かで左舷に集まり霧のかかっている海を見なが
ら話をしていた。栗原秀雄君は階段の手すりに腰をかけていた。
 その瞬間、激しい音がし、「衝突だ」という声が聞こえた。
 みんなカバンを取りに船の後部へ走っていく。私も、なにがなんだか分からないが後ろ
の方へ行くと救命具を収納するところがあった。手を伸ばしてとろうとしたが手が届かず、
そのうち無くなってしまった。
 その時、船が大きく傾いた。立つことができず、上からベンチも滑ってきてあっという間に
海の中に飲み込まれてしまった。
 早く海面に頭を出したい。苦しい手足を海中で力一杯足を蹴っ飛ばし、上昇を試みるが
甲板で頭を打ち浮き上がることが出来ない。水を飲むまいと口をつぐむが苦しい。一口、
2口、3口飲んだ後、力が抜け、小さい時に遊んだ楽しいことばかりが次から次へと浮か
んできて苦しさがなくなっていった。そして、両親に有難うと言ったことを覚えている。
 その後、気がついたら海面に浮上していた。周りに浮袋もない。横の方に大人の男女が
一つの浮き袋につかまっていた。私もその浮き袋につかまろうとしたが、怪訝そうな顔を
された。 向こうの方に浮き袋があるので泳いでいくと足を引っ張られ、また沈む。力一杯も
がいていると浮上でき、やっと浮袋につかまることができた。
 暫くつかまっていると、目の前に救助ボートがきた。「助かった」と思ったが、ボートは通り
過ぎてしまった。遠くに大きな船が見えた。学生らしい人が縄ばしごを登っていたが、力尽き
たのか落下している。私は、泳ぐこともしないで浮き袋を抱えたままじっとしていた。
 そのとき、私のすぐ後ろで「助けて―」と叫び声がした。私は、力を振り絞り、その生徒と一
緒に大きな船まで泳ぎ着きロープにつかまり船上にひき上げられた。
 船上で先生と数人の友達に会った。みんなの顔は重油で真黒であった。
 私は、近所に住んでいる渡辺鬼志松くんのことが心配になり、何人かに、「鬼志松見たか」
と聞いたら「見た」との声が返事があり安心した。(実際には、渡辺鬼志松くんは助からなか
った)
 たくさんの海水を飲んだのか、気を失いお腹が大きく膨らんだ女性徒が、人工呼吸をさ
れていた。口から何回か海水を吐き出し息を吹き返した。
船上は寒くガタガタと震えがきた。
 暫くして、高松港に運ばれその時、やっと毛布が配布された。そして、学校の体育館へ収
容される。見渡しても知り合いは見当たらない。心細い。大きな注射器で注射された。

◎ 親しい友と離れ離れに            高木(櫛部)清子

 私は、青野節子さん、青野琴之さん、青野恭子さんたちと一緒に左舷甲板にいました。
船尾に泡立つ白い波を見ながら、初めて船に乗った喜びをかみしめていました。恭子さんが
「あの白い泡じっと見よったら酔わい」と言っていました。
 船室の売店のところに外国人がいるということを聞きましたので一緒に何度も見にいきま
した。
 突然、大きな衝撃とともに「衝突だ!」と叫び声がし急に騒がしくなりました。船員さんが
「静かに。静かに。大丈夫」と大声で言いました。
 幼かった私たちは、船室に置いてあるお弁当やお小遣いの入ったカバンが頭に浮かび、
人をかきわけて船室に入りました。船が左に傾き始めましたので、私は節子さんと手をつな
ぎ右の方へ行きました。そのとき琴之さんと恭子さんの姿が見えなくなってしまいました。
 カバンを持ち、節子さんと手をつないで甲板へ出ようとしているとき、ドッと船が傾き、椅子
や荷物が体にぶつかってきました。その瞬間、節子さんと手が離れ、節子さんとの最後の
別れになってしまいました。
 気がつくと私は海中を浮いたり沈んだりしていました。海に白いものが浮いていましたので
それにつかまりました。知らない大人の方が私を見て「もう尐しだ。しっかりするだ。もう少し
だ」と励ましてくれました。
 少しすると船からロープがおろされましたのでつかもうとしましたが手が届きません。
じっとしているとその方が私の体をロープの方へ押してくださいました。その方も海に浸かっ
ていましたが本当に親切な方でした。
 暫くロープにつかまっていると船員の方が引き上げようとしてくれましたが、途中で手の力
が抜け離れてしまいました。
 そして、気がつくと毛布に包まって船の中に寝かされていました。
 暫くして私は誰かに背負われて眉山丸に移されました。眉山丸では大勢の人が毛布をま
とい看護婦さんが注射をしていました。私も注射をされました。
 その後高松鉄道病院に運ばれ、入浴などして休養した後みその旅館に移されました。
 節子さん、恭子さん、琴之さんたちの姿が見えず心配でなりませんでした。

◎ 記憶をたどって           阿部(菅)瑞江

 船に乗り皆と騒いでいたのですが、衝突の瞬間の記憶は思い出せません。
 誰かが水飛沫を浴びて、新調のセーラー服がずぶ濡れになって「これからの旅行なのに
どうならい」などと言っていたのは記憶にあります。
 船が傾き始めた時、私は船室にいたのですが何がなんだかわからないうちに床が傾き始
め小さいドアに人が殺到していたのは覚えていますが、以降の記憶がありません(意識を
失ったのでしょうか)。
 気がついたのは、椅子やいろいろなものが浮かんでいる海中をどんどん上がって行く途
中です。その時の息苦しさは今も鮮明に覚えています。
 本当に幸運にもポッコリ海面に浮き上がりました。そばに4、50代の男の人が救命道具に
つかまっていて私もつかませてくれました。そばに、早野(岡崎)千重子さんがいました。
 私はすぐ千重子さんとわかったのですが、彼女は私の顔が油で真黒になっていたのでわ
からなかったそうです。
 重油を飲んでいたのかその後熱が出て高松病院に入院し5月14日に帰宅して、自宅療
養していましたのでどなたのお葬式にも出ることができず申し訳なかったと思います。

◎ 気がついたらボートの中          西川(目見田)幸恵

 衝突のとき私は、3等船室の後部にいました。座る場所もなく、甲板に出るのも怖く、その
場所に立ったままで外を眺めていました。
 突然、ドーンと飛ばされ、前の椅子に座っていた人と激しくぶつかりました。一体何が起こ
ったのか分りません。
 「大丈夫だから」と船員の声が何度も聞こえましたが、周囲の人たちが後方へ行きますの
で、続いて出ましたら、もう船が傾きかけました。
 右舷側甲板の途中まで来たときは、ずいぶんと傾き、大勢の人達とともに水に押し上げ
られ、私はやっと抜け出せました。横たわってしまった船の横腹(水位線辺り)へ移動したと
きは、もう足元に水が来て、間なく海中に投げ出され、一瞬にして、何が何だかわからなくな
りました。
 沈む船の渦の中に引きずり込まれたのだろうと思います。海中に没していたけれど、苦し
い感覚はなく、夢のなかのできごとのようでした。
 そのうち、どこかへ足が届き蹴ったことは覚えていますが、そのまま意識を失っていたらしく
どのくらいしてかは分りませんが、気がついたらボートのなかでした。
 大きな船に移され、濡れた衣服を脱ぎ、毛布にくるまってベッドに横になっているうちに高
松港へ着き病院へ運ばれました。
 熱があり、翌日のトイレでは、真っ黒い便にびっくりしました。

◎ カバンを二つ持って海へ         日野(山内)和子

 最初多くの友達と甲板にいましたがいつのまにか離れ離れになり、西川(目見田)幸恵さん
と波を見ていました。霧がかかり遠くの景色は見えませんでした。
 少しすると向こうからスウーとこちらに近づいてきたものがありました。ねじり鉢巻をした男
の人が二、三人乗っているのが見えました。それは船でした。「あー」と思う間に、私の真正
面にドカンとぶつかり波しぶきを浴びました。腰掛けのかどで脛を打ちましたので、そこを抑
えながらカバンを取りにいきました。
 山内恒子さん(犠牲者)もきていました。「恒子さん。おそろしいねえ。沈めへんかろか」と
言いますと「おそろしい」と恒子さんも泣き声で言いました。相手の船に乗り移ろうともがい
ていると「ギギー」と船が傾きました。私は「恒子さーん」と手を伸ばしましたが届くことなく海
へ放り出されました。恒子さんと私のカバン二つ持ったままでした。
 いつのまにかカバンは二つとも無くなっていました。
 船へ上がってからも水をたくさん吐いたのでもう助からないと思いました少し寝ていますと
「船へ乗り換える」と誰かが言いました。私はフラフラして歩けないくらいでした。
高松桟橋へつき、体育館、鉄道病院と運ばれました。同級生のことが心配でなりませんでし
た。恒子さんたちが行方不明だということをききましたが、私のような鈍でも助かったのだか
ら助かるだろうと確信していましたのに・・・・・・。

◎ ボートにつかまる             早野(岡崎)千重子

 大きな船に初めて乗った物珍しさに、私は山内恒子さん(犠牲者)、阿部(管)瑞江さんと船
の方々を歩き回りました。午前7時前で薄暗く、そのうち寒くなりましたので船室に入りまし
た。
 近くにPTA会長の青野忠義氏がいらっしゃいましたので隣に座らせていただきました。
 瑞江さんとお話をしているとき「ドカン!」という全身を揺振る大音響がし、私は座席の前に
飛び上がりました。何が起きたのかと囲りが騒ぎ始めました。
「船が衝突した」と誰かが言っていましたが、何のことかわかりません。
 宮田校長先生が「荷物を持って逃げる用意をしておけ」と言われましたので、谷向(菅沼)
郁代さんとカバンを取りに行きました。私は気が遠くなりそうでしたが、フッと、外に出た方が
良いという思いが頭を過り、甲板に出ました。急に船は左後部へぐんぐん傾きはじめ、もう膝
のあたりまで水が来ていました。
 まるで滑台をすべるように海中に投げ出される人もいました。
 私はカバンをしっかりと持ち海中に飛び込みました。不思議にも私は海底を足で蹴ったこと
を今も憶えています。
 何回も浮いたり沈んだりしてもう駄目だと諦めていましたが、苦しみも恐怖も感じませんで
した。
 ふっと海面に浮上したところに転覆したボートがあり、それにつかまることができました。
 我に返った私が目の当たりにしましたのは、白い泡を漂わせている老人,浮遊物にしが
みついて泣き叫ぶ子供、それを奪うように取りすがる大人、さながら地獄絵図でありました。
 ちょうどそこへ油をべっとりかぶって真青な顔の女の子が浮かび上がってきました。大人
の方が「これにつかまり」と救命胴着をつかませてあげました。その時あまりの面変りに誰
だかわかりませんでしたが、後で瑞江さんだと気がついたぐらいでした。
 もうひとつボートが近くにあり、私はそこまで泳いで行って貨物船に引上げてもらいました。
 暫く船室で休み、漁船で高松桟橋に向いましたが、また衝突するのではないかと、その時
は心配でした。高松鉄道病院で入浴し、若松旅館へ収容されました。

◎ 「海面の上昇現象を発見した!」と錯覚         真鍋 寛定

 高松出航後かなり時間が経って、船がドーンと大きな衝撃を受けた。一瞬何が起こったの
か判らなかったが、「船が衝突した!」との叫び声。
 船が衝突したことにより、次の事態に備えるべき船員たちは船客に「船は沈まないので安
心してください」と繰り返し呼びかけた。おとなしい生徒たちは船室にて船員や先生方の指
導もあり、まさか船が何分か後に沈むとは思いもよらず、待機していた。
 私は甲板におり、船員が「船は沈まない。大丈夫だ」と叫んでおり、事態を正確に見分ける
眼力の無い私は、船は沈むことは無いだろうと思い、危機感はまったく無く、心配はしてい
なかった。
 ところが、甲板にいた私は、衝突後暫くして奇妙なことに気づいた。海面が次第に上がって
くるのである。前代未聞の不思議な現象に気づき、友達を呼んで海面の上昇する状況を得
意になって説明した。このことは、今もって紫雲丸事故で一番印象に残っていることである。
 ところが、私が新発見と思った海面の上昇は、実は船が今まさに海底に沈没しているこ
とそのものだったのである。そのことに私が気づいたのは、船が沈むに従い傾きかけ、甲
板の傾斜が次第に大きくなり、立つことが困難になったときである。鈍い私も、船が沈むこと
の重大さにようやく気がついたのである。
 船が沈む前、私は船の後甲板に移って、長椅子の上に立ち、救命胴着を付近にいた友達
や船客に渡し、自分は胴着1個を抱えたまま海水に浸かった。私は船の後甲板にいたため
海水が押し寄せ、船の沈没とともに渦に巻き込まれたが、胴着を抱いていたことにより海面
に浮上することができたのだと思う。渦に巻き込まれた時には、息がまったくできず海水をた
くさん飲み、「もう駄目だ。死ぬのだ」と思ったが、胴着を片時も手放さなかったことで海面に
浮上し助かった次第である。
 幼少から私は比較的身長が高く、貨物船の構造(救命胴着の保管場所等)についいて、
叔父が勤務していた外航船を新居浜港で見学したことにより多少頭に入っており、事故の
際救命胴着を引き出し友だちに渡し、着用方法は知らなかったが抱きかかえていたため助
かった。沈没の際胴着を持っていなければ今日の私はなかった。
 海面に浮上した際、四十歳から五十歳の男性が、胴着につかまった私と女の子二人を腕
に抱えて浮いていたところを第三宇高丸の救助艇に救助され、第三宇高丸の甲板に降り立
ち、やっと生きて船に収容されたことを実感したが、事故の恐怖から体はガタガタと震えが
止まらなかった。船員が毛布をかけてくれ、やっと気が落ち着き周囲を見渡すと、甲板に既
に2、30名の遺体が並べられており厳しい現実を目にした。
 救助された方も、船から流出した燃油にまみれ黒く見分けのつかない人もいた。
私は、大変なことになったと思ったが、小学生の私にできることはなくただおろおろするばか
りであった。
 大惨事のなかで、先生方は、当初は呆然としておられたが、直ぐに我に返り、受持の生
徒たちの情報をつかむため狭い船内を懸命に探しておられた。しかし、生徒の情報をつか
むことは難しかったようである。
 暫くして、私は高松港に運ばれた。海水を多量に飲んでいたため鉄道病院に収容され医
師の検診を受けたが、さほどのことではないということで病院で待機するよう言われた。

◎パレットにつかまる             近藤照一

 船が衝突したとき、私は友だち数名と左舷後方の階段付近にいました。
 船が大混乱するなか、誰かが私に救命胴着をくれましたが着け方が分りません。困って
バタバタしているときに船が傾き、そのまま海中に飲み込まれました。
 海中では息が切れそうでもう駄目かと思いましが、何かの都合でグルグルと舞い上がる
ように海面に浮き上がることができました
 浮き上がったとき、少し先にパレットが浮いており数名が乗っていました。そこまで必死で
泳いでゆき、引上げてもらうことができました。
 暫くして、第3宇高丸に移り、風呂に入り衣類を乾燥してもらいました。
漁船で高松桟橋まで運ばれましたが、途中で、雲を取り払うように霧が晴れ青空が見えたの
を覚えています。
 高松桟橋到着後、若松旅館に運ばれ家族を待ちました。

◎近所の上級生に借りた手提げカバンで浮上できる      芥川 勉

 私は、左舷側のデッキで佐伯先生、日和佐昭二くんたちと釣舟を見ていましたが、濃霧
のなかに入り何も見えなくなりました。暫くして「ドカン!」と大きな衝撃でしりもちをついてし
まいました。先生に「何があったのですか」と聞きましたが先生は「わからない」と応えられま
した。
 機関室から船員の方が駆け上がってきて、「船が衝突した。沈むからこれを持っておけ」
と救命胴着をみんなに出してくれました。救命道具のことは知りませんでしたので「これ
なんだろう」という感じで、日和佐君と2人で1個を持ちました。
 その後船が左舷側に大きく傾き日和佐君とは離れ離れになりました。私は家の近所の上
級生から手提げカバンを借りていましたが、そのカバンを持って高い方に登りました。45度
ぐらい傾いたとき、誰かが私の足につかまり下に滑り落ちました。立ち上がると腰まで海水
に浸っていました。
 その後どうしたかは記憶にありません。気がつくと海中でもがいていました。とても苦しく
海水をかなり飲んだようです。手提げカバンが浮き袋の代わりになったのでしょうか、暫くし
て海面に浮き上がることができました。周りには、救命具をしっかりと身につけた人が何にも
浮かんでいました。
  そのとき手提げカバンが重くなったので放してしまいましたが、近所の救命いかだに何
人も乗っておりその人達に乗せてもらいました。
 宇高丸に移ってから化粧煙突のところに行き温まりました。
 その後、眉山丸に乗せられ高松に行きましたが、途中また沈むのではないかと心配でし
た。
 旅館に着いてから、気分が悪くなり横になっていると誰かが私を病院に運びました。暫くし
て父母が病院に来てくれましたが、父母の顔を見て安心しました。
 その日は故郷に帰ることができず、病院に一泊して翌日の十二日にやっと帰ることができ
ました。

◎ 左手の指に救命具の紐がひっかかる         高橋(飯尾)民子

 船が衝突したとき、私は上甲板の5、6人が座れる場所に佐伯先生たちといました。朝霧
がうっすらとかかっていたのを覚えています。
みんなでお話をしているとき「ドカン!」という衝撃が走りました。
黒谷部落の二、三人がずぶ濡れになったセーラー服姿で走ってきて、「先生。船が衝突した
!」と叫びました。
 私たちは、カバンを持ったままみんなが行くほうに行きました。みんな第3宇高丸に乗り移
ろうとしていたのです。
 私たちも渡ろうとしましたが、大人に押されて渡れません。
 目前の階段の上部に赤ちゃんを背負ったお母さんがいて、手を伸ばし、階段の下にいる
幼稚園児ぐらいの男の子をひきあげようとしているのが見えました。その瞬間船が沈んで
しまったのです。
 私はそのまま海に沈みました。従姉の縫ってくれたスカートの両肩が全部スナップでした
のでそれが良かったのかも知れません。靴を履いたまま一生懸命スカートを踏みけっていた
とき左手の指に救命具の紐がひっかかりました。島根の河津小学校の生徒が持っていた救
命具でしたが必死で放さずもっていると一緒に浮き上がりました。
 近くに筏があり、五、六人の男の人が乗っていました。水色や白色のトランク持っている人
もいました。筏につかまっていた人が「トランクを捨ててこの二人の子供を乗せてやってくれ
ませんか」といってくれましたが、トランクを持った人は「それはできない」と言いました。
 そのとき別の人が、「私が降りるから」といって海中に入り、二人を乗せてくれたのです。
 子供心にも、悪い人・良い人がいるのだと感じました。
暫 くすると、漁船が近づいてきて、第3宇高丸に移してくれました。ボイラー室で毛布に包ま
り体を温めました。
 それから高松に運ばれましたが途中のことはよく覚えていません。覚えているのは、私を
探していた父の必死の顔です。父は、秋祭りに着る赤い着物を持っていました。私がもう駄
目だと思って持ってきてくれたそうです。

◎ 海に沈まず第3宇高松丸へ乗り移れる           川上 紀男

 船が衝突したとき私は後方の甲板にいました。ドカン!という大きな音と衝撃が走りました
が何が起きたのかわかりませんでした。
 友達が甲板の中ほどにいたのでそこに行き救命胴着をもらいました。その後、人の流れ
に任せて甲板の後ろの方に行き、 みんなが階段を降りているので私も階段を下りました。
 中ほどに船員さんがいて「この先に行きなさい」といいましたので、指示どおりそれを昇りま
した。そのとき私は、幸運にも第三宇高松丸の甲板に乗り移っていたのです。
 下をみると多くの人が海で泳いでおりびっくりしました。そのときはじめて船が衝突したこと
を知ったのです。
 暫くして、漁船で10人ぐらい一緒に高松へ運ばれ、病院に暫くいた後若松旅館に行きまし
た。


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