第三部  修学旅行そして紫雲丸乗船



(一)4年生・5年生の旅行

 当時、庄内小学校では、4年生、5年生に進級した春に日帰りの旅行を、6年生に進級した
春に1泊2日の修学旅行を、実施していた。
 この旅行は、外に出る機会の少ない当時の小学生にとって、社会を知る重要な教育行事で
あり、また最大の楽しみであった。
 4年生の春、私たちは、住友化学新居浜工場を訪問し、農業に使用されていた硫安など化
学肥料の製造現場を見学した。
 5年生の春には松山市を訪問、愛媛新聞社、NHK松山支局、松山城、道後温泉などを見学
し、楽しい1日を過ごした。
(この松山への旅行が同級生全員で旅行した最後の旅行となった)

(二)そして修学旅行

 そして、いよいよ6年生の修学旅行である。
 職員会において、例年どおり1泊2日にて高松市の見学を実施することが決定され、教育
委員会の承認も得た。
 当時の高松市は、現在の存在以上に、文化面でも産業面でも四国の最先端都市であり、
また四国から本州への玄関口でもあった。
 宇高連絡船への乗船も例年どおり計画された。

〔スケジュール〕
5月11日 午前6時、国鉄予讃線にて高松桟橋着。宇高連絡船に乗船し宇野にわたる。
宇野にて朝食。その後三井玉野造船所を見学。宇高連絡船にて高松に戻る。
高松市内、栗林公園を見学。旅館に宿泊。
5月12日 屋島、琴平を見学。夕刻予讃線にて帰郷

 宇高連絡船への乗船は、「当校の生徒は、海に行く機会が少なく船に乗る機会がない。せ
っかく高松に出るのだから、一度宇高連絡船に乗船させてやりたい」という、父兄と先生の
配慮から生まれた計画であった。
 先生から、各家庭に旅行計画書、旅行への児童の参加確認書が配布された。
 
 残念ながら、1名は、家庭の事情で参加させられないということになり、参加生徒数は78名
となった。
 多くの生徒たちが、詰襟の学生服やセーラー服を新調してもらい、新しいリュックサックや
運動靴も買ってもらい出発の日を待った。参加できぬ友達のために、全員が1円ずつ出し
合いお土産を買ってきてあげることもクラス会で決めた。
 ほとんど全員が、県外に出ること、大きな船に乗ることは初めてであった。期待に胸が膨ら
む一方で、漠然とした不安もなかったとはいえない。
 特に、女子生徒たちの不安の中心は、
「船が沈んだらどうしよう」

「高松市の自由行動の時間に何をしよう」
ということであり、何度も家族につぶやくものがいたという。

(三)出発の日

 庄内村の最寄駅は伊予三芳駅であるが、急行列車が停車しない。停車するのは伊予壬生
川駅である。庄内村から壬生川駅までの距離は、部落により異なるが、約5キロメートル、車
で30分ほどである。
 当時の蒸気機関車では、壬生川駅から高松駅まで4時間以上かかった。午前6時に高松
桟橋で宇高連絡船に乗船するためには、午前2時前には壬生川駅を出発する必要がある。
 先生が今治交通公社に足を運び決めた列車は、「宇和島発上り34号」であった。
 5月10日午後7時35分に宇和島を発車、5月11日午前1時33分に壬生川駅を経由し、
5時50分に高松桟橋に到着する。

 深夜出発のため、5月10日火曜日の授業は、2時間で打ち切られた。
 先生から、「帰宅後出発までの時間に睡眠をとっておくよう」指示があった。
 私たちは胸を躍らせながら正午過ぎ帰宅した。
 昼食後、先生の指示どおり眠っておこうと布団に入ったが、ほとんどの生徒は興奮で眠れ
ない。結局、本を読んだり、お使いに行ったりして時間をつぶした。
 その日の午後から夜にかけて、母親たちは、旅立つ子供達のために、腕に縒りをかけて、
とびきりご馳走の弁当を作った。この弁当は、宇野港到着後食べる朝食であったが、一つ
として食べられることなく海の廃棄物となった。
 出発のための集合場所は、庄内小学校と大野部落四辻の2箇所で、集合時間は、それぞ
れ、11日午前零時と零時30分であった。各集合場所から壬生川駅まで、農協青年団が2
台のトラックで運んでくれることになっていた。
 家を出る前、私たちはお弁当やお菓子、列車で読む本などをリュックや手提げカバンに詰
め込んだ。それから、両親から修学旅行の特別のお小遣いをもらった。金額は、個人により
差があったろうが、300円前後ではなかったかと思う。
 総務省統計局の統計によると、昭和30年の消費者物価は現在の約6分の1なので、現在
価値では2,000円弱ということになる。少し少ない気もするが、当時の生活レベルからすれ
ば、両親は「特別にはりこんだ」ということだったろう。
 私たちは、兄弟姉妹におみやげの約束をした。

(四)出立、家族との別れ

 10日午後11時頃から、私たちは三々五々、2箇所に集合した。
 黒谷部落の長井巧くん、長井タケミさん、長井秀美さん、佐伯(越智)都、古江(長井)ケイ
子及び河之内部落の山内淑江さんの6名は、遠距離でしかも山道なので、早めに再登校し
、家庭科教室で睡眠をとり待機するよう、先生から指示があった。
 5人は、帰宅後すぐ準備を整え、夕方、長井巧くんは自宅で家族に別れを告げて一人で、
女生徒5人は途中の中田橋までお母さんなどに送ってもらい連れ立って、再登校し、待機
していた。
 その他の生徒は、6人ほど遠くはないが深夜である。多くのものが、近所の友達と一緒に、
両親などに集合場所まで送ってもらった。
 5月中旬は、庄内村の麦の穂が脹らみ、黄緑色に色づき始める季節である。当夜の天候
は曇り空であった。暗い夜道に麦の穂が黒く揺れているのが見えた。
 小学校で先生が点呼をしているとき、村上克幸くんのお母さんが駆けつけてきて、
「申し訳ありませんが、克幸が急に高熱を出し、参加できません」
ということであった。
 欠席者が2名となり、最終的な参加者は、生徒77名(男子37名、女子40名)、引率の先生
4名、PTA会長他の父兄2名、合計83名となった。
 11日午前零時30分、小学校集合組の出発時間である。
 両親はめいめい、子供たちに、先生の指示をよく守り楽しい旅行をしてくるように諭した。
「行ってきます!」
「元気でね!」。
 生徒たちは、女生徒を内側に、男生徒がその廻りに、トラックの荷台に乗り込んだ。
 トラックは、大野四辻に向かった。
 大野四辻でも、同様の光景が繰りひろげられた。
 2台のトラックは、相次いで大野四辻を出発し、暗闇のなかを壬生川駅に向かった。

 30名の犠牲者は、この日の家族との別れが、今生の別れとなった。
 家庭科教室で待機していた6名のうち、佐伯都と古江ケイ子以外の4名は犠牲者となり、
夕刻の家族との別れが最後の別れとなった。
 壬生川駅到着後待合室に整列。先生が再点呼。
「乗車後は、他の乗客に迷惑をかけぬよう静かにすること。明日の旅行に備えてよく睡眠をと
るように」
という注意が与えられた。

(五)予讃線にて高松桟橋へ

 列車は、5月11日午前1時33分定刻どおり白い煙を吐いて壬生川駅に滑り込んできた。
 私たちは後部二両に乗車した。
 座席は、4人ずつのボックス席である。修学旅行といっても現在のように指定席ではない。
 深夜で乗客は少なかったが、殆どの乗客は2人用のシートに体を横たえて眠っていた。
 先生がお願いして席を空けてもらい、全員が座席に着くことができた。
 先生の注意にもかかわらず、生徒たちは、最初興奮で眠ることができず、おしゃべりをした
り、雑誌を読んだり、お菓子を食べたりしていた。
 蒸気機関車なので窓を開けると石炭の煙が入ってくる。夜の間は、窓は閉じたままであり
車内はかなり蒸し暑かった。
 途中、志賀重子さんなど、車酔いをする生徒が数名あらわれ、先生が薬を飲ませデッキに
連れて行き、春風を吸わせた。
 やがて、車内は徐々に静かになり、うとうとと眠る生徒が増えてきた。
 丸亀を過ぎる頃、夜が白白と明け始め、坂出の塩田が車窓に広がり始めた。私たちは、列
車の窓を開け、景色を眺め、流れ込んでくる冷たい風を吸った。
 その後、洗顔をしたり、髪をといたり、荷物をまとめたりして下車に備えた。

(六)紫雲丸乗船

 午前5時52分、列車は定刻に高松桟橋駅に到着した。整列して桟橋へ。
 桟橋では、紫雲丸が白色の巨大な船体を横たえていた。
 高松港はどんよりと曇っていた。
 乗組員が、連絡をとりあうように忙しく動いていたが、暫くして出航の決定があった。
 午前6時少し前、私たちは、勇んで乗船した。
 紫雲丸の客室は、上部の遊歩甲板(プロムナード・デッキ)に設けられていた。
 前面の大型角窓のある個所が1等客室、その後部が2等客室、そして中央部に食堂兼休
憩室があり、その後部が3等客室であった。客室の後ろの甲板上には、12台のデッキ椅子
が並べられていた。
 私たちの乗船場所は、3等客室の後部であった。といっても、座席が指定されていたわけ
ではない。
 私たちは、客室に入り、リュックなどの荷物を客室の隅にまとめて置いた。
 船の出発まで30分ほどの時間があった。私たちは、客室を散策したり、両舷に出て海の
風景を眺めたり、艫(とも=船の後方部)で貨車の積み込み作業を見学したりして、出発を待
った。
 船に、少し体の大きい生徒の集団がいて話をしており、なにか心強い感じがした。関西方
面の見学に向かう高知県南海中学校の生徒たちであった
 島根県川津小学校、広島県木江南小学校の生徒は、高松見学を終えての帰路であったが、
右舷に立ち並び、桟橋で見送る宿の人達とテープを引き合っていた。
 6時40分、出発の銅鑼を鳴らし、別れの音楽と風に翻るテープを引いて、紫雲丸は出発し
た。



(七)船の中

 紫雲丸は、高松港を大きく旋回し、港外に出た。数十羽のカモメが、風の中を舞いながら、
船を追ってきた。
 このような大きな船に乗るのは全員はじめての体験であった。
 高松港出航後、男子生徒は、ほとんど全員が甲板に出ずっぱりであった。海を眺めたり、
船を追うカモメを見たりしながら、左舷から右舷、右舷から艫(船の後部)、艫から左舷へと、
甲板を走り回っていた。
 早朝の瀬戸の海は鈍く淀んでいた。遠くに小さな島々や数隻の釣り舟が見えた。
 女子生徒も、最初甲板に出て景色を眺めたりした。しかし、ほとんどの者が暫くして客室に
戻った。甲板が少し肌寒かったのと、珍しい一方で何となく不安で、先生の側にいたいという
心理もあったのだろう。
 ちょうど、食堂の隅にある売店に外国人が2人いて外国語をしゃべっていた。田舎の小学
生には外国人は珍しい存在であった。
「外人がいて英語をしゃべっている」
との噂が女子生徒の間に伝わった。そのこともあり、多くの女子生徒が客室に戻り、外国人
を見に行ったりした。


 出航10分後ぐらいだったろうか、霧がだんだんと濃くなってきたようであった。右舷にいた
生徒は、霧の向こうから、薄黒い島影のようなものがだんだんと近づいてくるのをみた。
 女木島だったのであろう。
 その頃から、紫雲丸は、断続的に霧笛を鳴らすようになった。
 やがて、船の周りは、まるで宵闇のように暗くなった。遠くの風景は見えなくなり、船の蹴立
てる波と海上に浮かんだ木片だけが眼下に見えた。
 そのとき、紫雲丸は、衝突に向かって、迷走を始めていたのである。
 私たちは、船の航行についての知識は皆無であった。何故、紫雲丸が霧笛を鳴らしている
のかについてもわからなかった。
 しかし、空と海の異常な暗さは、なんとなく不気味であった。男子生徒は、その不安を打ち
消すように、甲板で騒いでいた。
 出航後16分、突然、事故が発生した。



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