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第二部 庄内小学校の生活
(一)庄内村
私たちの出身地は、現在の愛媛県西条市庄内地区である。
かっては、周桑郡庄内村であったが、私たちが小学5年生の昭和30年(1955年)に三芳
村、楠河村と合併して三芳町となり、さらに昭和46年(1971年)に壬生川町と合併して東
予市に、さらに、平成16年に西条市と合併して西条市となった。
本稿では、小学校時代の大半を過ごした「庄内村」と表現する。
県都松山市の東部に高輪半島があり、瀬戸内海に向かって北に張り出している。
高輪半島の中心部を南北に高輪山系が走り、樽原山など標高1,000メートル級の山があ
る。
樽原山の東側に五葉の森という標高841メートルの山があり、その東方は、山間地帯・傾
斜地帯・平坦部を経て瀬戸の燧灘(ひうちなだ)につながっている。
庄内村はこの一角にあり、山間部と緩やかな傾斜地からなる。
村の大部分は高台なので、燧灘やそこに浮かぶ小島などを眺望することができる。東南
方に目を転ずると、西条市壬生川地区、さらには西条港や西条の工場地帯が見える。
南方の空には、関西一峻厳といわれる石鎚山系がそびえ立ち、四季折々の姿を見せる。
村の中心部から最高峰の石鎚山(1,982メートル)まで、直線距離で約16キロメートルで
ある。
面積は、約34平方キロメートルと広い。それは、庄内村が27平方キロメートルという広大
な山林を有するためである。
山林は、ほとんどが海抜500メートル以下でさほど急峻でない。第2次大戦中などには、
木が薪炭用、建築用などに濫伐され、荒廃する時期があったようであるが、その後の植樹や
保護活動により、現在は一面に檜や杉が生い茂っている。
人口は、昭和30年(1955年)当時は、約3,400人(注)であったが、平成12年(2000年
)は2,276人と減少している。これは、昭和35年(1960年)以降の高度成長時代に若者が
都市部に流出したことと、少子化の影響であると思われる。
昭和30年当時、村には専業農家が多かった。米作と麦作の二毛作が中心であり、麦作の
代わりに煙草を栽培している農家もあった。公務員や会社員である者も、ほとんどが農業
を兼業とし食料を調達していた。
現在は兼業農家が圧倒的に多い。周辺部における商工業の発展と農作業の機械化が、
それを可能にしたのであろう。
昭和の時代に減少を続けた人口は、最近数年間はほぼ安定している。子どもたちが地元
に残り、兼業農家として跡を継いでいく生活スタイルが確立されたとみることができるのであ
ろうか。
四国を襲撃する台風は、ほとんどが南西方面から四国を襲う。庄内村は、西の高輪山系と
南の石鎚山系が台風に対する盾となるおかげで、比較的風水害の少ない環境にあった。
ただし、悪条件が重なった時には、村の南部を流れる大明神川が氾濫し農地を水没させる
ことがあった。また、かって、旱魃の被害もあリ、農民たちの水争いもあったそうである。
農政の基本は、治山・治水にあるといわれるが、洪水の防止と用水の確保には、昔から
相当苦労をし、予算を投入してきたようである。
庄内村という地名は、山形県庄内地方に代表されるように日本全国にあるが、いずれも
平野地帯にあり、米の適作地だそうである。
私たちの出身地庄内村の緩やかな傾斜地も、肥沃な農地であり、庄内産の米は、反当り
の収穫量が多く、すぐれて美味であることで界隈のの評価が定着している。
庄内村では、縄文式遺跡・弥生式遺跡が数多く発見されている。
肥沃な土地・豊かな自然・温暖な気候に恵まれた庄内村には、何千年も昔から、人々が集
落を形成し、生活を営んでいたのである。
(注)人口は国勢調査によるが、昭和30年については地区別の統計がない。庄内地区は昭
和25年が3,568人、昭和35年が3,099人であるので3,300人と推定した。
「夕刻の風景」、「ひまわり畑」、「早春の畑」、「春の大明神川」は、西条市旦之上青野正史
氏のホーム・ペイジの作品を転載させていただいたものである。
(二)激動の時代
歴史の教科書をひもとくと、私たちが小学校に入学した昭和25年(1950年)から卒業の
昭和31年(1956年)当時、日本は激動の時代であったことがわかる。
昭和25年(1950年)には朝鮮動乱が起こり、アメリカ空軍は日本を基地として北朝鮮の
攻撃にあたるとともに、装備・補給・修理を日本で実施した。
昭和年26(1951年)サンフランシスコ講和条約及び日米安全保障条約調印。講和条約
は翌昭和27年(1952年)発効。日本は形式的には占領から開放される。この年メーデー
事件がおきる。
昭和28年(1953年)朝鮮休戦協定成立。
昭和29年(1954年)日米相互防衛協定成立。陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊体
制成立。ビキニ水爆実験で日本の漁船が死の灰を浴びる。
昭和30年(1955年)自由民主党成立。社会党統一。砂川などで基地問題発生
昭和31年(1956年)日ソ国交回復のための共同宣言及び通商議定書調印。日本の国連
加入実現
この間の状況を要約すると、
①講和条約の締結により一応占領体制から開放されたこと
②日米安保条約の締結などアメリカなどの自由主義体制下に入ることが明確になったこと
③米ソ冷戦、中国における共産党政権誕生等の国際情勢から、アメリカは日本をこれらの国
に対する極東の重要拠点とみなすようになり軍事力が強化されたこと
④戦後とられた平和主義・解放主義的な政策が修正され、共産主義運動・組合活動などに対
する規制が強化されたこと
⑤国民の間にはこれらの施策に対する反発があり大規模なデモや集会が行なわれたこと
などに要約されるであろう。
経済的には、朝鮮戦争が始まった昭和25年(1950年)から28年(1953年)にかけて、
戦争特需、世界経済の好況による輸出の増加、豊作等が重なり、繊維・セメント・紙パルプな
どの産業が復興し、昭和29年には、鉱工業生産や国民所得が戦前のレベルに回復したと
言われている。
さらにその後、昭和30年(1955年)後半から31年(1956年)にかけての好況(神武景気
)で、電力・鉄鋼・石炭などの基礎産業の生産も拡大し、鉱工業生産・国民所得、一人あたり
国民所得とも、戦前のレベルを凌駕するようになった。
しかし、好・不況の波が大きいこと、また、大企業と中小企業の格差、都市と地方の格差、
貧富の格差など経済の二重構造が存在しており、日本経済は未解決の課題を抱えていた。
小学校時代の6年間は、日本が戦後の復興に向け、必死でうごめいていた時代だったと
言える。
(三)村の生活
このような社会情勢に関わらず、当時の村人の生活は、私たちには平穏に見えた。
ただし、平穏にみえたのは、私たちが子供で無知であったためかもしれない。当時は、多
世帯同居制度であり気がつかなかったが、調べてみると、同級生79名のうち15%以上の
父親が戦死している。
私たちは、昭和18年4月から昭和19年3月に生まれた。母親が妊娠中あるいは私たちが
生まれてすぐ、父親が出征し戦死した事例が多いのである。
父親が戦死した同級生は、父親の顔を知らないか記憶にない。
母親たちのなかには、嫁ぎ先に同居しながらあるいは自分ひとりで、必死で子どもを養育し
ていた人がかなりの数いたのである。
戦後のできごとで、村人に直接大きな影響を与えたのは、昭和21年(1946年)の第二次
農地解放であろう。直接の記憶にはないが、両親などから、
「Aさんは農地解放で良くなった」、
「Bさんは昔大地主だったのに今は苦労されている」
という類の話を聞いたことがあった。
大半の村人の生活は、米を供出して収入を得るというものであったが、決して裕福ではなか
ったと思う。
また、農作業は楽ではなかった。作業の機械化が進んだのは昭和30年代中半以降であり
当時は、耕作は牛馬に、田植・草取り・稲刈りなどは人手に頼っていた。
春の田植どき、秋の刈入れどきなどの農繁期は、家族総出で作業を行った。小学校にも
「農繁休業」の日があり、小学生も農作業の手伝い、弟・妹の子守りなどを行った。
食料面では肉類と甘い物とが不足していた。魚介類は、燧灘に面する漁師村である河原
津から、おばさんがリヤカーや自転車で売りにきた。比較的安価に入手できたのだろう、定期
的に食卓にあがったが、肉は貴重品であった。庭で飼ってい鶏の生む卵は、最大のご馳走
であり栄養源であった。また、お祭りや正月などで親戚が集まるときには、かわいそうだが鶏
やうさぎを絞め、肉を食べた。
手伝いの駄賃に両親が芋菓子などを買ってくれたが、甘い物の欠乏した当時は、それが最
高に楽しみであった。
(四)楽しかった小学校
庄内小学校は、明治23年に庄内尋常小学校として開校された歴史の古い学校であり、西
条市(本稿では庄内村)旦之上にある。
庄内村は、山方から順に、黒谷・河之内・旦之上・大野・宮之内・福成寺・実報寺の7部落
から構成され、小学校には7部落の生徒が通っていた。
黒谷は、五葉の森の麓にある山村であり、小学校から約4キロメートル以上の距離があっ
た。 当時は道路の舗装もなく、小学生には遠く、厳しい山道であった。特に、雨の日は道
がぬかるみ大変だったが、全校で10数名の生徒が、雨風を厭わず通学していた。
平野部にある実報寺や福城寺などからは、学校まで2キロメートルちょっとの距離である。
平野部からは、緩やかではあるが、登校は登り坂、下校は下り坂となる。大人になるとさほ
どの距離ではないが、特に登校は、随分と遠く感じたものである。
各学年2クラスで「松」「梅」「桜」などクラス名にがつけられていた。
1学年約80名弱、1クラス約40名であった。昇級の際、クラス替えが行われる場合もあ
り、行われない場合もあった。生徒の転校はほとんどなく、入学から卒業まで六年間の生活
を共に過ごした。同級生は、多少仲の良し悪しはあっても、全員が友達であった。
校舎は、檜作りの立派な校舎であったが、明治42年(1909年)の建築であるから、私た
ちが小学校に入学した昭和25年(1950年)には築後40年を超えていた。
(紫雲丸事故発生の昭和30年12月には、本校舎の裏側に新校舎が完成する予定で、私た
ちはそれを楽しみにしていた。事故で亡くなった友達は、新校舎へ入居することはできなかっ
た)
教室は、天井が高く夏は涼しかったが、冬は相当に冷え込んだ。休憩時間には、みんな
が壁に並び、おしくら饅頭などをして体を温めたりした。
また、机は、上級生が長い間使用してきた木製の古いものであった。上級生がいたずら
をしたのかナイフの傷などがついていた。
家にテレビはなく、遊ぶときは外で遊ぶことが多かった。遊びの発見には随分熱心だっ
たと思う。男子生徒なら、メンコ、釘打ち、凧揚げ、草野球などはもちろんのこと、はや釣り、
鯉釣り、現在は禁止されているメジロ捕りまでに精を出した。
庄内村には、神社や寺院が多い。旦之上の円満時、実報寺の実報寺、宮之内の宮内神社
などは、格好の遊び場所であった。そこに集まり野球などに興じた。
また、親しい友達の家を訪問することをよくしたものだ。2キロメートル、3キロメートルという
距離を厭わず遊びにいった。田舎なので土地や住まいが比較的広かったせいであろうか、
庭で、また部屋にあがりこんで、または野山に出て、一緒に遊んだ。
当時、庭や道端に、枇杷の木・無花果の木・柿の木などがたくさんあり、季節になるとたわ
わに実がなった。誰それくん・誰それさんの家にどういう木があるかを知っており、季節になる
と一緒に木に登り食べた。特に、枇杷の実は食べがいがあった。梅雨のあける頃、友だち
数人で木に登り、たらふく食べた。それでも一本の木を食べ尽くすだけで数回かかった。
友達のお母さんがお菓子などをくれるのも楽しみの一つであった。
当時は女子生徒も相当に活発で、木登り、野球や水泳などを一緒に楽しむこともあった。
小学校の校庭の隅に開墾畑があり、サツマイモが栽培されており、冬になると好いイモ
を採取した後の小さなイモが残っていた。4年生のときだったろうか、ふとしたことから男女
対抗のイモ投げ合戦になった。ある女子生徒の投げたイモが男子生徒の頭に命中し、男子
生徒が泣き出し、男性軍が敗退したことがあった。
男子生徒・女子生徒という意識は、現在ほどなかったと思う。特に、低学年の頃は、お互い
の家に行って、一緒に遊んだり勉強したりすることもあった。
小学校の南方を、高輪山系から瀬戸の海に向かい、大明神川が流れている。昭和30年
代後半に、治水対策で、川底・川岸がコンクリートで固められ、すっかり生態系が変質してし
まったが、当時は、大岩の間を清流が脈々と流れ、魚がたくさんいて、小学生にとっては絶
好の遊び場所であった。
夏の水泳は、ほとんど、この川か各部落にある潅漑用の池で行った。
現在の感覚からすると、瀬戸の海は目と鼻の先にあるが、海では、青年団主催のキャン
プや家族旅行で泳ぐ以外は泳がなかった。車の保有率が低かったこともあろうが、子供た
ちにとって、近くの川や池での水泳が楽しく、海に出かける必要もなかったのである。
学校にプールはなかった。腕白小僧やお転婆娘にとっては、川や池で十分であったが、現
在のように全員が水泳を習うという状況にはなく、一部に、水泳のできない子や嫌いな子が
いたことは否めない。また、女子生徒は、上級生になるにつれ、川や池での水泳を避ける傾
向があった。そして、このことが、女子生徒の犠牲者が多かった一因となったのかもしれない。
大明神川に隣接して、座象の形をした「象が森」という小高い山がある。山頂には城址があ
り、格好の遠足場所であった。小学校の間、この山に登り、頂上で弁当を食べ、写生やゲー
ムなどをして下山するということを何回もおこなった。
家族連れなどで、遠くに旅行することはほとんどなかった。それだけ「世間知らず」の生活だ
ったといえるが、そのかわり、思う存分自然を満喫し、自然から学習した毎日であったといえ
ると思う。
当時の小学生はみなそうであったのだろうか。向学心は相当なものであったと思う。
亡き友の遺作には、
「勉強したい」
「成績を上げたい」
ということが盛んに書かれている。
習字なども驚くほど立派な字である。
6年生になった自覚も旺盛である。
「下級生の模範になる行動をしなければならない」
「指導してあげなければならない」
といったことが書かれている。
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