第五部   悲しみの再会


(一)村への悲報

 「紫雲丸沈没」の第1報を伝えたのは、NHK午前7時30分のニュースであった。
 数名の父兄や先生が、このニュースを聞いた。
 長井友正氏(故人。亡くなった長井洋くんのお父さん)は、このニュースで「沈没した紫雲
丸に愛媛県庄内小学校の生徒が乗船している」ということを聞き、小学校に駆けつけた。
 長井友正氏のご自宅は、学校から5分程度の近くにあった。

 庄内小学校の教頭であった川上叶蔵先生(故人)は、7時45分、平常どおり登校して、自
転車置場に自分の自転車を立てかけようとしていた。
 そのとき、長井氏が脱兎のごとく駆けつけてきて、声もとぎれとぎれにうめくように言った。
「うちらの子供の乗っていた船が沈んだ。困った。困った。・・・・・」
 川上教頭は、長井氏と親しい間柄だったので、最初冗談かと思い長井氏を見た。
 よく見ると長井氏は裸足のままであり、体がわなわなと震えていた。

 川上教頭は、ことの重大さを直観し、宿直室に飛び込んでラジオのスイッチをひねった。
 どのダイヤルでも紫雲丸の事件は無い・・・・。
 そのとき、教員室の電話のベルがけたたましく鳴った。受話器をとると、それは国鉄三
芳駅長からの電話であった。
 「今、高松から電話がありましたが、宇高松連絡船が沈没したようなのです。その船に
庄内小学校の生徒が乗っていたようなのですが詳しいことは未だ分りません。…」
 教頭は、死刑を宣告されたような衝撃を受けた。8時になると同時に、またラジオにかじり
付いたが、今度はトップ・ニュースとして、はっきりと事件が報じられた。
「香川県香川郡女木島西方で紫雲丸と第3宇高松丸が衝突し、瞬時にして紫雲丸は沈没し
た。死者・負傷者多数を出している。高松港は大混乱している・・・・・」

 川上教頭は、残留教員の緊急集合を命じるとともに、最高責任者として何をなすべきか
を瞑目し考えた。
 臨時職員会において次のことが決定された。

① 児童に事態を伝え、臨時休校として直ちに下校させる。
② 現地に救援のためのできるだけの職員を派遣する
③ 留守教員最低四名を残し連絡にあたる
④ 隣接校に応援を依頼する

 先生たちは、担任の生徒たちに事件のことを話し直ちに下校させた。兄や姉が、紫雲丸
に乗っている生徒が多数いた。
 当時、村には電話はほとんどなかった。連絡手段は、各部落の中心部に設置された有線
放送のマイクであった。
 川上教頭は、越智キミエ先生を役場への連絡に行かせた。
 この連絡を受け、8時過ぎからマイクで、村の公報として、けたたましく事件のことが報じ
られた。
 広報を聞いた村人は、生徒の親戚や知り合いなどに伝えに走った。
 農家の朝は早い。そのとき既に農作業に出ていた父兄もいた。家族などが田んぼまで走
り事件のことを伝えた。
 父親や母親が、庄内村や近くの町などに勤めに出ていた家もあった。親戚の者が職場に
走った。
 事件の情報は、瞬く間に村中に伝わり騒然となった。生徒たちの母親のなかには、悲嘆
のあまり大声で泣き叫ぶものもあった。
 報せは、生徒たちの兄・姉が通う河北中学校にももたらされた。その日河北中学校は、全
校一斉の遠足の日であり、生徒全員がお弁当を持って学校に来ていた。
 生徒たちは校庭に集合させられ、事件のことを知らされた。遠足は中止となり、直ちに帰
宅するよう指示が出た。
 兄・姉たちは、弟・妹のことを心配しながら、急きょ帰宅の途についた。

(二)父兄高松へ飛ぶ

 生徒の父兄たちは、公報の
「壬生川駅から高松に向かう」
との知らせによって、家からあるいは職場から、とるものもとりあえず壬生川駅に駆けつけ
た。
 第1団として、壬生川駅午前9時50分発上り列車にて、川上教頭他の教員5名、父兄、
 庄内消防団などが高松に向かった。さらに、午前11時に第2団が出発した。
 父兄は、両親、父親と兄、父親と叔父などさまざまな構成であった。万一の場合のショック
を考え、母親をやらせなかった家庭もあったそうである。しかし、父親のいない家庭はそん
なことは言っておれない。母親が、単独で高松に赴いた家庭もあった。
 子供たちの生死はまったく不明であったが、すべての父兄が、子供たちに着替えさせる
衣服の入った風呂敷づつみをしっかりと抱えていた。

 高松までの4時間は、父兄にとって苦しく、息の止まるような時間であった。子供のいそい
そと旅行の準備に励んでいた姿、出発の時の
「言ってきます!」
と言って手を振った姿などが、脈絡もなく思い出された。同時に、波のなかでもがき苦しんでいる子供の姿が、打ち消
そうとしても脳裏をよぎった。
「生きていてほしい」
 それだけが父兄たちの望みであった。

(三)生存者、犠牲者ともに高松へ収容

 救出された生存者は、第3宇高丸や漁船で暫く待機させられた後、順次、海上保安庁船、
漁船、眉山丸などによって高松桟橋へ運ばれた。
 早く救出されたものは、第3宇高丸の船内で衣服を少し乾かすことができたが、ほとんど
の者の衣服はずぶぬれで、寒さに震えていた。高松桟橋に向かう船中では、沈没時の恐
怖がさめず、
「また船が沈むのではと怖かった」
と、多くのものが手記に書いている。
 高松桟橋でやっと毛布が支給され、桟橋からバスで高松第4小学校の体育館に収容され
た。そこで氏名・住所などのチェックを受け、そのあと四国鉄道病院へ運ばれた。
 四国鉄道病院では、浴衣が支給され、医師の診察を受け、その後入浴して身体を温め、
ジュースなどを飲んだ。
 どのくらい病院にいたのか記憶が定かではないが、その後、重油を飲んだり、ケガをした
りして体に支障の発生している者は、そのまま病院に残り、支障のないと判断された者は、
看護師さんに連れられて近くのみその旅館と若松旅館に移った。
 私たちは、病院や旅館で数名の友達に会うことができ生存を喜びあったが、仲の良かっ
た友達や船で一緒にいた友達で会うことのできない友達が多くいた。どうしたのだろうと不
安でならなかった。
 一方、引揚げられた犠牲者は、第3宇高丸や漁船に収容された後、同様の手段で高松桟
橋に運ばれ、高松桟橋の遺体仮安置所に安置された。
 遺体には収容番号が付せられ、氏名が確認できた場合は氏名を書いた紙が載せられた。

(四)最初の対面 明と暗(5月11日夕)

・暗

 庄内小学校の父兄・教員など第1団が高松桟橋に到着したのは、5月11日午後2時であ
った。
 一行は直ちに遺体仮安置所に向かった。
 安置所の入口は大混乱していたが、川上教頭が
「庄内小学校の保護者です」
と説明し、中に入ることができた。
 中には、顔を白い布で覆われた無数の遺体が並べられていた。ずぶ濡れの学生服や、セ
ーラー服をまとった小学生と思われる小さな遺体がある。
 父兄たちは、我が子ではないかと、魂も消える思い出で、1枚1枚白い布を取り除き、遺体
を確認して回った。
 そのとき、長井巧くん、渡辺麻子さん、青野琴之さん、近藤和子さんの4名の遺体が確認
された。
 遺体はずぶ濡れであった。長井巧くんは学生服、渡辺麻子さん、青野琴之さん、近藤和
子さんはセーラー服に白いネクタイという出発した時の姿であったが、運動靴やリュックをな
くしている子もいた。
 4名の父兄たちは遺体を取り抱えて泣いた。

 長井巧くんのお母さん、長井フサ子さん(故人)は、巧くんとの再会を次のように記されて
いる。(追悼録より)

「私の前に変わり果てた巧の姿をみたとき、驚きと悲しみにどうしていいかわからなく人目
も構わずわっと泣き出してしまいました。呼べども叫べども声も無く、冷たく変わり果て、ポケ
ットには巧と書いた手帳や喜んで受取ったお小遣いがびしょぬれになっていました。
 次々と送り返される白い靴や手提げを見ては、出発の日に手提げを持った姿が思い出さ
れて、胸がはりさけんばかりでございました」

 すべての遺体は、父兄の検証後、服を脱がせられ大きな防腐注射をされ、白衣に着替え、
入棺される。その後、書類作成の手続きをとり、労働会館内の遺体安置所に運ばれ、そこ
で簡単な仏式法要が行なわれる。
 そして、高松駅から帰郷の路へ。
 すべての父兄にとって、やり場のない涙の作業であった。
 他の父兄たちは、我が子が発見されなかったことで、生存への希望をつないだ半面で、
我が子もこのような姿で揚がってくるのではと恐怖に慄いた。

・ 明(生存者再会)

 他の父兄たちは、その後、直ちにみその旅館・若松旅館・四国鉄道病院などを回り、血眼
で子供を捜した。
 旅館と病院は、報道陣も集まり、大勢の人でごった返していた。
 すぐに子供をみつけることができた父兄もいたが、なかなかみつけられない父兄もいた。
 西川(目見田)幸恵のご両親(現在お父さんは故人 )は、旅館や病院を何箇所も探したが
発見できず、半ば諦めていたところ、最後に行った病院の片隅で、重油で顔を真黒にした
彼女をみつけたとのことである
 この日40名の生存が確認された。うち6名は、四国鉄道病院に入院しており、病院での
再会となった。
 我が子の生存を確認できた父兄の喜びはひとしおであり、
「よかった!よかった!」
と我が子を抱きしめた。
 私たちの多くは、両親などに会えたことでそれまでの緊張が一気に緩み、大声をあげて
泣いてしまった。そして、親しい友達がみつからないこと、修学旅行のために両親が買っ
てくれた靴や鞄を無くしたことなどを両親に訴えた。
 生存者の両親は、喜びに浸っていることはできなかった。
 83名のうち4名が死亡し、まだ39名の生死が確認できなかった。そのなかには親戚の
子供や近所の子供もいた。母親たちは子供をつれて帰郷することになったが、多くの父親
が高松に残り捜査の支援にあたった。

・ そして暗

 庄内小学校事故対策本部が若松旅館に設置された。
 行方不明者の父兄たちは、我が子の生還を祈りながら、何度も何度も、若松旅館と高松
桟橋を往復した。
 その後、篠塚貞子さん、四宮照美さん、渡辺鬼志松くん、武田美鈴さん、渡辺美智子さ
ん、武田貞子さんの6遺体が確認された。
 11日午後10時、潜水作業は暗夜のため中止を余儀なくされた。
 その時の生存確認者は53名(生徒48名、先生4名、父兄1名)であり、死亡確認者11名
行方不明者19名であった。


(四)眠れぬ夜(5月11日夜)

 その夜、行方不明者の父兄たち、先生たち、応援に駆けつけた庄内消防団、教育委員会
の人たちは、若松旅館に陣取り、まんじりともせず夜の明けるのを待った。
 父兄のなかには、部屋で待機することに耐えられず、薄暗い高松桟橋に出て、何度も子
供の名前を泣き叫ぶものがいた。
 当日中に発見されなかった行方不明者の生存は、悲観的な見方をせざるを得なかった。
 しかし、父兄たちは、我が子の生存を諦めることなどできなかった。
 PTA会長の青野忠義氏が行方不明であるということが、藁にもすがりたい父兄たちに
一縷の望みを抱かせた。
「あの壮健な青野会長なら、きっと子供たちを引き連れ、近くの島に避難しているに違いな
いというかすかな願いが胸の中にあった」
 追悼録のなかで、川上教頭はそう記されている。
 しかし、この願いも、翌12日、無残にも泡沫の夢となった。


(五)5月12日

 5月12日午前6時、夜明けと同時に潜水作業が再開された。捜査支援のため、自衛隊、
海上保安庁の船が出動した。また、多数の近隣の漁業関係者が漁船を出し、捜査に協力し
た。
 父兄たちは、希望して、まだ薄暗い夜明け前、引揚船第3鉄栄丸第1回出港に同乗し、
事故現場に赴いた。事故現場では、海底に沈没した紫雲丸の白い船腹が波間に見えた。
「あのなかに我が子がいるのだろうか」。
 父兄たちは、船上から海にお菓子を投げ入れ、我が子の名を呼び続けた。
 当日の作業で多くの遺体があがった。高松桟橋の遺体仮安置所だけでは収容しきれず、
桟橋駅建物の屋上にも収容された。
 12日中に確認された庄内小学校関係の遺体は、次の14遺体である。
 女生徒の遺体のなかには、修学旅行の鞄を大事そうに抱えていた子もいた。
 午前10時には、PTA会長青野忠義氏、お嬢さんの青野恭子さんの遺体も収容され、昨
夜の父兄たちの望みは、はかない夢であったことが判明した。

 午前7時  青野節子さん 長井タケミさん
 午前9時  日和佐辰雄くん 山内美智子さん 越知久美子さん 長井秀美さん 管恵美子さん
 午前10時 青野忠義氏(PTA会長)青野恭子さん 山内淑江さん近藤ミヤ子さん 吉本フジ
        子さん
 午後1時  竹田シズ子さん
 午後10時 山内恒子さん
                  

 次の手記は、長井タケミさん(犠牲者)のお父さん長井亀一氏(故人)の手記の一部で当
日の様子を記されたものである。(追悼録より)

「長い一夜がやっと明け、未だ陽も登らぬなか、引揚船で現場に行く。波の底にうす白く見
える紫雲丸。『ああ、あの中にタケミもいるのか。いてくれればよいが』。『いやいる。いてく
れるに決まっている。ここから声限り呼んでやろう』。そう思ったが、胸が迫って、涙がとめど
なく流れどうしても声が出ない。これではいかん。タケミはそこにいるのだ思い直して、声を
限りに呼んだ。
『タケミ。父さん迎えに来とるぞ。早くあがって来い。タケミ!』
声は震えて出なかったが、返事があったような気がした。持っていた飴をあえぎながら取り
にきたような気がした。
潜水夫が入り始めて間もなく、第一船が母船に帰ってきた。暫くして、河原の敏夫と藤原の
孟さんが『亀兄さんおらんか!』と叫ぶのが聞こえた。私は、人垣のなかを矢のように遺体搬
送船に飛び込んだ。敏夫たちが『こっちへおいで!こっちへおいで!』という。
何人もの子供の死体が並んでいるなかにタケミの死体があった。『タケミじゃないか』私は
死体を抱きしめ人目を構わず泣いてしまった。 セーラー服も着ている。靴下もはいている。
今治で買ってやった靴も履き、水筒もかけている。顔は、ただ眠っているようであるが、手
や足が固くなっている。どうしてこんなになったのか。『タケミ。タケミ!ネクタイも服もスカート
もずぶ濡れだ。寒かったろう。冷たかったろう。タケミ。こんなになっても、こんなにしても、も
う覚えがないのか…・・』」


 川上康くん、長井洋くん、栗原秀雄くん、青野悦子さん、志賀重子さんの5名は、行方不
明のままであった。
 父兄たちは、いよいよ生存を諦めざるをえなくなった。
「こうなった以上、一刻も早く収容されて欲しい」
 それが父兄たちのせめてもの願いであった。
 国鉄の発表では、5月12日午後10時30分現在で、全体の死者139名、行方不明者
54名ということであった。
                

(六)5月13日から

 5月13日からは、潮流をみながら、昼夜を問わず潜水作業が行われた。また、底引網
漁船が事故の近海を掃海して捜査を行った。
 5月14日から捜査範囲を拡大。5月17日には、漁船120隻で神在鼻(高松西方20キロ
メートル)から高松までの間を捜査した。この間に、行方不明者5名のうち4名の遺体が確
認された。

13日 午前3時  青野エツ子さん 長井洋くん
14日 午前2時  川上康くん
17日 午後4時  志賀重子さん

 志賀重子さんの遺体は、偶然にも地元の漁船の網にかかり発見された。父親の志賀信一
氏(故人)は、追悼録のなかで、遺体発見の時の様子を次のように記述されている。(追
悼録より)

「このうえ皆様にご迷惑をおかけしては忍びないと決心して、17日夕方の列車で帰る段取
りでした。午後3時が過ぎても何の便りもないので、もう駄目かと思い、かねて用意の香花
や重子の好物であった果物、菓子などの供物を海に投げて涙とともに霊に別れを告げ、現
場に心を惹かれつつ高松にひきあげた。ところが不思議なことに高松に上ると「重子さんが
あがった」という知らせを受けましたが、私には信じられませんでした。暫くして長男や親類
の者に見守られて帰ってきたとき、私は思わず「重ちゃんえらかった。よく帰ってきてくれた」
と亡き子が生き返ったようにうれしく遺体を抱えて泣き伏しました。
その夜は遺体安置所に安置され、各寺院の法主さまの読経をきき、翌朝高松を出発して無
言の帰宅をしました。重子をひきあげてくれた船は、高松市西浜町の川口駒吉氏ですが、
やさしい人柄で、重子が生前やさしい子だった故、こうした方にひきあげられたものと信じ
ます。もし今も海底に眠っていたとしたら一生忘れることができないと思います。あの広い
海の中であの小さな網に乗ったのが不思議です。遺体が求められたことは不幸中の幸い
でした」

(八) 最後の対面(5月21日)

 栗原秀雄くんは、依然として行方不明のままであった。
 5月18日、底引網漁船94隻を含む漁船121隻が出動し、掃海作業を行った。米軍ヘリコ
プターも協力して海上から捜査を行った。
 以降、毎日、同様の広域捜査が行われた。
 しかし、栗原秀雄くんの遺体は、5月21日まで見つからなかった。
 5月21日午後8時、事故現場から遠く離れた海中で、漁船が児童のものらしい頭部を発
見し、徳島大学法医学部で検証の結果、栗原君の頭部であることが確認された。おって胴
体が24日に発見された。
 なぜ、頭部と胴体が分断されるという残酷な事態が発生したのかは不明である。
 栗原秀雄くんの遺体発見は、紫雲丸事件168名の犠牲者のうち166番目であった。
 残る2名の遺体は、6月18日から7月10日の間に行われた紫雲丸浮揚作業でも発見され
なかった。
 1名の遺体は、事故発生から7ヶ月も経った12月2日、現場から東方15キロメートルも離
れた庵治沖合で発見されたが、もう1名の遺体はついにみつからなかった。

(九)故郷へ帰る

 私たち生存者名48名のうち、入院者6名を除く42名は、家族の持参した服に着替えて、
5月11日の夕刻高松駅を発ち、三芳駅まで戻り自宅に帰った。
 入院加療が必要であった6名は、5月12日、5月14日、5月18日に2名づつ帰郷した。
 山内浩視、高橋(飯尾)民子、西川(目見田)幸恵、和気紘美の4名は、帰京後の再検診
で、重油を大量に飲み肝臓などに重大な支障をきたしていることが分り、県立今治病院に
再入院、約4ヶ月の長期治療を余儀なくされた。
 一方、犠牲者の帰郷は、5月11日から最後に栗原秀雄くんが帰る5月25日まで続いた。
 遺体の帰郷の状況は、次のとおりである。栗原秀雄くんの遺体は、先に述べた事情で、5
月22日と25日の2回にわたり帰郷した。

5月11日    7体
5月12日   17体
5月13日    3体
5月14日    1体
5月18日    1体
5月22日及び5月25日  1体

 栗原くんの遺体が故郷へ運ばれた5月22日午後、庄内村事故対策団の人々は、いった
ん解散し、故郷に戻った。
 事故発生以来、先生、消防団、郡教員組合、その他有志の方々など懸命に対策に当たら
れた。また、地元高松の多くの関係者の方に、労を厭わぬご協力をいただいたそうである。
 事故対策本部の方々は、協力をいただいた人々に感謝の意を表し、帰途についた。一行
は疲れきっていた。多くの犠牲者そしてご遺族の悲しみを思うとき、深い疲労感とともに落
胆の気持を拭いさることができなかった。


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