おわりに



(一)本四架橋

 昭和63年(1988年)4月、瀬戸大橋が開通した。おって、平成10年(1998年)4月には
神戸・鳴門ルートが、平成11年5月には今治・尾道ルートが、開通し、四国・本州間が3本
の橋で結ばれることになった。
 3本もの橋ができたことを、どう評価すればいいのか。四国の住民または出身者である私
たちは、この評価をすることは難しい。
 私たちにとり特別の思いがあるのは、紫雲丸事故の発生した宇高航路の代替となった瀬
戸大橋である。
 事故の後も、関西・関東などに居住したものは、受験、就職、結婚、そして両親の死など、
人生の転機の度ごとに、宇高航路を利用した。宇高航路の1時間は、故郷に向かう旅、故
郷から去る旅であり、亡き友の思い出をかみ締める時間でもあった。
 紫雲丸は、事件後修復され、瀬戸丸と改名し、瀬戸大橋開通後廃船となるまで就航を続
けた。そして、女木島西方の事故現場を通過するとき、事故を悼み長い霧笛を鳴らし続けた。
 乗船の度ごとに、私たち、配偶者そして子供たちも、合掌し友の冥福を祈った。
 そして、瀬戸大橋の完成。
 架橋の実現により、瀬戸の海は、ほんの10分程度のまたたく間の通過点となった。
 素直に考えて、人や貨物の大量で定期的な輸送を船舶に依存するのは、経済的に効率的
ではない。また、安全上問題がないとはいえない。その意味で、瀬戸大橋により本四間の
鉄道輸送および自動車輸送が実現されたことは、評価すべきだと思う。
 本四架橋は、四国の住民にとって長年の夢であった。架橋を実現したものは、この夢、そ
して架橋技術の進歩、景気対策、政治家・経済界のうごきなど、住民のエゴを含め、いろん
なものがない交ぜになったものであろう。これらのことは、美化せず客観的にとらえる必要
があると思う。



 そして、紫雲丸事件が、瀬戸大橋実現の推進役となったのである。
 亡き友そして遺族の方は、瀬戸大橋の完成を喜んでいるに違いない。
 ご遺族にとっては、「亡き子・夫が架橋に貢献したのだ」と考えることが、せめてもの心の
救いであったと思う。
 私たちは、亡き友、PTA会長、そして同時に犠牲になった多くの方々が、瀬戸大橋架橋の
推進役となったことを称え、感謝したいと思う。
 私たち橋の利用者をはじめ、橋に関係されるすべての方々は、紫雲丸事件で多くの小中
学生などの生命が失われたこと、また架橋工事に際し殉職された方がいらっしゃること、そ
してその尊い犠牲のうえに架橋が実現されたということを、いつまでも忘れず、安全に最大
の注意をはらわなければならないと思う。

(二)亡き友を偲びつつ

 私たち庄内小学校の生存者同級生50名(事件生存者48名他2名)のうち、既に5名が病
気などで死亡した。
 残る45名は、23名が西条市など愛媛県内、15名が大阪など関西、4名が九州、3名が
関東で生活している。
 平成16年5月1日、私たちは庄内小学校に集まり、みたまの塔に詣でた。
 この50年の間に、世界、日本、故郷、すべてのものが、様変わりした。
 小学生であった頃の庄内村は、道はデコボコ道であり、自動車が通過するともうもうとした
砂埃がたった。現在は、道路は農道にいたるまで舗装され、舗装道路の中に田畑が広がっ
ている。まるで箱庭のようである。
 農作業はすっかり機械化された。立派な屋根瓦の家が並び、駐車場には2台、3台の車
が並ぶ。道前平野を走る県道の両側には、スーパーや食物屋などが立ち並ぶ。
 農村の生活は、随分と裕福にそして便利になったように見える。
 水泳、釣り、野良犬飼育など、子供たちの遊びの宝庫であった大明神川は、川底、川岸
がコンクリートで固められ、当時は見かけなかった植物が繁茂し、川で遊ぶ子供の姿はな
い。
 一緒に行った象ゲ森への遠足は、現在も行われているのであろうか。
 桜が美しく、村人の花見の場所であり、小学生の格好の写生場所でもあった水谷池は、
隣に工場が立ち、水が変色し、見る影もない。
 時代はかわり、私たちは年をとった。
 しかし、私たちの瞼に残る亡き友の姿は、当時の小学生のままである。そして当時の村
の自然や生活とともに浮かんでくる。
 哀れにも、余りにも短い人生であった。私たちも冥土に赴く日が、段段と近づきつつある
が、そのときどのような姿で再会できるのであろうか。
 せめてこれから、当時のことを偲びながら、亡き友の冥福を祈りつつ、静かに人生を過ご
したいと思う。

平成16年5月
愛媛県東予市庄内小学校昭和31年3月卒業生有志

青野唯勝 芥川 勉 川上紀男 黒河 稔 近藤照一 長井武敏 真鍋寛定 山内浩視
阿部(菅)瑞江 高木(櫛部)清子 佐伯(越智)都 高橋(飯尾)民子
西川(目見田)幸恵 早野(岡崎)千重子 日野(山内)和子

(女性の姓( )は旧姓である)



若きみたまに

一 待ちわびし 修学旅行に
  さゞめきて いで立ちしまゝ
 とこしえに ついに帰らず
紫雲丸 恨みぞ深き

二 うち沈む 船にすがりて
 呼ぼう声 霧をつんざき
 まき起こる 魔の渦潮に
 散り別れ はてにし命よ

三 まなかいに その姿見え
今もきく その声々を
三十の 若きみ魂よ
     やすらにねむれ 蓮のうてなに

(この歌は、紫雲丸殉難者追慕の歌として、作詞長井敏雄氏(故人)、作曲周桑教職員組
合により作られたものである)





〔参考文献〕(順不同)

「紫雲丸遭難追悼録」 東予市立庄内小学校(昭和31年4月発行)
「庄内小学校要覧」 東予市立庄内小学校(平成15年版)
「庄内村誌」 庄内公民館(昭和31年6月発行)
「ふるさとこみち」 東予市庄内地区学習推進委員会
庄内公民館
東予市ホームペイジ 東予市
「悲劇の紫雲丸」 高松洋平(成山道書店)
「紫雲丸はなぜ沈んだか」 荻原幹生(成山道書店)
「昭和史Ⅱ」 中村隆英(東洋経済新報社)
毎日新聞記事(昭和31年5月) 毎日新聞社
日本経済新聞記事(昭和31年5月) 日本経済新聞社
読売新聞記事(昭和31年5月) 読売新聞社


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