第八部   事件の背後にあったもの




 紫雲丸事故の原因は、
「紫雲丸、第3宇高丸両船が、濃霧のなか、相手船の進路や速度を正確に確認できない
状況下で必要な減速を行わなかったことと、紫雲丸中村船長が第3宇高丸が右舷対右舷
通行を選択するものと誤信して、行会い(すれちがい)通行の原則に反する左転をしたこと
にある」
といわれている。
 このことについて、第一部で記したように、国鉄に対する批判が集中し、総裁の更迭、関
係者の懲戒処分、組織改正などに発展した。また、事件後数年間にわたり、海難審判及び
刑事裁判が行われ、船長など乗組員の責任が追及された。
 しかし、国鉄に対する批判の内容は、どちらかといえば、「不行届きな現場に対する管理
監督責任」ということであった。また、海難審判および刑事裁判は、乗組員個人の責任追
及であり、国鉄の体制は、「当時の国鉄の規定によると」などの表現で、所与のものとして
整理され、法人としての責任や代表者の責任は追及されていない。
 50年を経て顧みるとき、この事件は、直接の原因は乗組員の過失であったしても、その背
後には、当時の国鉄の体制、さらには社会情勢が、深く関係していたのではないか、という
思いを打ち消すことができない。
 確証の得られない点が多いが、私たちの社会人としての経験にも基づき、あらためてその
ことを提起したい。

(一)安全管理能力に欠けていた国鉄

 当時の国鉄は、人・物の輸送分野で中心的存在であった。
 自動車輸送や航空機輸送が未発達の当時、そのシェアは、現在のJR各社合算のシェア
を遥かに凌ぎ、業界で寡占的地位を占めていたのである。
 輸送、特に人の輸送において、最も重視されるべきことは、安全であり人命尊重である。
 国鉄は、「安全・人命尊重」を最重要課題とし、何事にも優先し、まっとうすべき立場にあっ
たと言える。

 国鉄のような大組織において、重要課題を達成するためには
 ①組織のトップが方針を明確に示すこと
 ②スタッフは、その方針を実現すため、現場との連携を密にし、実態に即したルールの制
  定や教育を行うこと、また処遇制度を確立するこ
 ③現場は決められたルールを確実に実践すること。問題があれば現場の長は、直ちにト
 ップまたはスタッフに上申し、両者協議して解決を図ること
という、業務のサイクルが確立されることが必要であると思う
 組織のトップの大方針の下、各部門の権限と責任が明確にされ、上・下、縦・横一体となっ
た迅速で建設的な取り組みが展開されることが必要なのである。
 紫雲丸事件を検証すると、当時の国鉄はこの原則に違い、トップやスタッフが全社的観点
から決定し徹底を図るべき事項が決定されず、現場の運用に委ねられ放置されていたので
はないか、また、必要な教育が十分に実施されていなかったのではないか、さらに、現場で
は、身分の序列や経験主義という古い価値観が幅を利かせ、危機意識が低下し、安全のた
めの合理的活動が行なわれていなかったのではないか、という疑問が湧いてくる。
 以下、それを個別にとりあげる。

① 何故、基準航路が制定されていなかったのか

 先ず第一に、宇高航路では、「基準航路」が正式な規定として制定されておらず、女木
島周辺では、船長判断で、通行原則に反する「右舷対右舷通行」をとることが許されてい
たことをとりあげなければならない。
 紫雲丸中村船長の左転を、
「ルールに反する個人的過失である」
とばかり避難することはできない実情が存在するのである。
 実は、紫雲丸の沈没は二度目であり、昭和25年3月にも、直島西南方の直島水道にお
いて、鷲羽丸と衝突し、沈没している。
 この衝突は深夜であったが、原因は、二度目の事故と同様、両船の船長が行会い通行に
際して、異なった判断をしたことだといわれている。

 国鉄は、この事故の経験をもとに、宇野近郊の海域においては、上り便(高松発宇野行)
は直島水道(直島と荒垣島・葛島の間の水道)を、下り便(宇野発高松行)は葛島水道(荒
垣島・葛島西部の水道)を通行するよう航路を分割した。同時に、「行会い通行は左舷対左
舷で行うこと、相互距離200メートル以内に接近しないこと」を取り決めた。
 にもかかわらず、女木島周辺では、下り便の高松港入港の利便性から、船長判断で右舷
対右舷通行をとることが許容されていたのである。
 当時の「宇高連絡船船長会申し合わせ事項」の第1項目として、「高松港と女木島間の
航法について」というのがあり、
「右舷対右舷で航過する場合には、海上衝突予防法 ニアリ・エンド・オン(お互いに真向か
いの状態)の状態を速やかに脱するようお互いに早めに操船すること」
というのがあり、そのことを示している。
 5年前に同様の原因で事故を発生させているにもかかわらず、何故、基準航路が確定さ
れず、女木島周辺の通行を、船長会の申し合わせに委ねていたのであろうか。
 国鉄の安全意識の低さから、「基準航路制定」という安全上極めて重要な基本問題と、
「運航は最終的には船長の判断で行う」という運用上の問題が、混同され、放置されたま
まになっていたのではないか。
 もし、正規の基準航路が定められていれば、濃霧下といえども、この事故は発生しなか
ったであろう。

② レーダー運航体制に問題はなかったか

 第二に、濃霧下における安全運航の鍵であるレーダー運航について、安全上の重要性
が十分に認識されず、運航上のルールが制定されず、教育も十分には行われていなかっ
たのではないか、という疑問がある。
 事故発生時に、レーダー観測にあたりながら指示を出していた紫雲丸中村船長は、レー
ダー取扱無線技師の資格を有せず、しかも、レーダー操作に不慣れであったという。
 濃霧下で多数の乗客をのせた船のレーダー観測が、このようなレベルの人に行なわれて
いたということは、信じられないことである。
「濃霧下での船長としての責任感から、直接状況を把握したいと考えたのではないか」
という弁護もあったが、仮にそうであるとしても、許されることではない。
 レーダー観測は専門家に任せ、総合的な観点から指揮をとるというのが、船長の役割で
はないのだろうか。
 中村船長は、当時54歳、極めて篤実・温厚な人柄で、長年、宇高松連絡船に乗船され、
定年を真近に控えられていたという。
 なぜ、中村船長が自らレーダー観測を行ったのか。
 個人的には、長年の経験による過信や危機意識の鈍化などがあったのだろうか。
 個人的な問題を別にして、当時の様々な資料を見ると、当時の国鉄現場は、レーダー
運航に習熟しておらず、また、当局はレーダー運航を安全対策であると同時に輸送能力
向上策としてとらえ、安全第一の観点からの積極的なルール作りや教育を実施していなか
ったのではないかと思われる。

 紫雲丸は昭和26年(1951年)12月から、第3宇高丸は昭和28年4月の就航時から、
レーダーを装備していた。
 事故発生の昭和30年当時は、日本の船舶にレーダー装備が普及し始めた頃で、普及
率は30パーセント程度であり、航海担当の乗組員にも、レーダー取扱いの資格をもたず、
操作を得意としないものが多かったという。
 また、性能面からみると、当時のレーダーは、相手船の位置は確認できても、その進行
方向と速度については、プロッティング作業をしない限り、確認できなかった。
 また、レーダー観測方法に二つの方法があり、習熟していないものが操作を行うと、相手
船との距離や進行方向について錯覚を生じる場合があったそうである。
 中村船長が衝突直前に左転回をしたことについても、レーダー観測上何らかの錯覚を起
こしていたという説が、有力である。
 
 これらの状況からすると、国鉄がレーダー運航を取り入れる以上は、航海担当の部員に
対し、レーダーの性能や取扱いに関する研修を十分に実施し、
「レーダー観測は、レーダー性能を熟知し操作に精通した乗組員以外は、船長といえども
担当できない」
ことをルール化することが、安全上極めて重要であったはずである。
 紫雲丸事故翌日の昭和30年(1955年)5月12日付毎日新聞によると、長崎国鉄総裁
(当時)は、
「船長、船員の再教育に不十分な点はないか」
との記者の質問に対し、
「毎年幹部社員4、5名を神戸の海技専門学院に派遣し、下級船員は函館長崎の船員養
成所に入れて各種の訓練を行っているが、この再教育を一層強化したい」
と回答している。
 毎年幹部社員4、5名とはいかにも少ない数値であるし、各種の訓練のなかにどのような
教育があったのか、具体的には語られていない。

③ 濃霧下における具体的運航ルールは不要だったのか

 三番目に、極めて重要な問題として、「濃霧下における国鉄としての具体的運航ルール」
は、必要なかったのであろうか。
 レーダーによって、相手船の進路と速度が確認できない以上、濃霧下で相手船が衝突の
可能性のある距離に近づいた場合、「必要な減速を行うこと、そして相手船の意思を確認
すること」が、衝突防止の基本であることは、素人が考えても明らかである。
 紫雲丸事件は、濃霧下で、両船が減速もせず、無線電話による相手船への連絡も最後の
切羽つまった状態まで行われず、発生したのである。
 このことについて、海難審判及び刑事裁判では、両船長(中村船長は死亡)及び数名の
乗組員が、
「海上衝突予防法15条の危険防止義務に違反する」
として、責任を問われたのである。確かに、個人の責任は問われなければならない。
 しかし、これは個人だけの問題ではないと思う。
 春に瀬戸内海で濃霧が発生することは珍しいことではない。そして、当時のレーダーの
性能からすると、レーダーのみに依存した運航は極めて危険であり、必ず、減速や無線電
話での確認の措置がとられなければならない。
 国鉄として、安全第一の観点から、減速や無線連絡のルールを、明確かつ具体的にとり
決めるべきであり、「海上衝突予防法に衝突予防に関する規定があるから船長がそれを守
るべきである」ということだけで済まされる問題ではないと思う。
 特に、減速の問題については、定時に船を到着させ、列車に接続させることが連絡船の
使命である以上、明確なルールがない限り、減速は避けようとするのが船長の心理であろ
う。
 もと第3宇高丸船長荻原幹生氏は、氏の著作「紫雲丸は何故沈んだか」で、次のような
記述をされている。

「天候、事故等により定時運行に支障が生じた場合、船長は四国鉄道管理局長に対し船
舶事故報告を行い、列車接続にいたらなかった理由を弁明するよう規定されていた。荒天
・濃霧など天候障害のいかんにかかわらず、客船は5分以上、貨物船は10分以上運航が
遅れた場合は、この報告をしなければならなかったのである。
この報告の多寡によって、船長の勤務成績に影響するものではないとされているものの、
煩わしいことには違いなかった。これがプレッシャーにもなった。
このため、船長たちはできるだけ定時発着を守ろうとした。特に、『実地あがり』のタタキ上
げ船長には意地があった。彼らは『体で覚えた技術』を誇りに、『どんな条件でも定時に着
岸するぞ』という熱い思いで燃えていた。各船にマリンレーダーが設備されてからは、この
傾向はますますつよくなる。船長たちは、レーダーの性能とそれによる操船法についての
十分な検討を行わないまま、たとえ霧中であっても全速力で走り、定時発着を守ろうとした
のである。」

 また、無線電話による確認についても、次の記述がある。
「当時、無線電話での確認は、船と桟橋間でしか行われず、相手船と連絡をとるのは周
辺の気象情報を聞くということぐらいだった」

 この記述によっても、程度の差はあれ、濃霧下で、減速せず、無線電話での確認をとら
ず、運航することが常態化していたことが推察される。
 にもかかわらず、具体的運航ルールは制定されず、放置されていたのである。
(なお、荻原幹生氏のこれらの記述は、当時の宇高航路における船長や船員の傾向を表
現されたものであり、具体的運航ルールが無かったことに対する批判に関係したものでは
ないので念のために申し添える)

④ 救助訓練は行なわれていたのか

 最後に、事故発生時における乗組員の救助行動についてとりあげなければならない。
 海難審判では、
「紫雲丸においては、かかる場合、各種安全装置および救命設備を活用できるよう、平素
訓練を実施すべきであるが、当時の状況に鑑み、これを活用しなかったことをもって、直ち
に船員の常務を怠ったと批難することはできない」
とされた。また、刑事裁判でも、救助活動について罪を問われたものはいなかった。
 しかし、停電になったとはいえ、水密扉(他の区画への浸水を防止する扉)の手動によ
る駆動を誰も実施しなかったこと、また、事故後の乗組員の発言は、
「大丈夫だから静かにしなさい」
ということが中心であり、その発言を守り、船内で待機して犠牲になった先生や生徒がいる
ことなどを考えると、事故後の乗組員の言動が犠牲者を多くしたのではと考えざるをえない。
 私たちの体験から推定すると、船が沈没する場合、「ここにいては助からない」という
スポットがあると思う。
 紫雲丸乗組員63名のうち61名の方は助かっている。二名の犠牲者のうち一名は殉職
された中村船長であり、もう1名の方は勤務明けで船員室で睡眠中であったとされる。
 こういう言い方をするのは失礼だとは思うが、乗組員の方はそのスポットを知っており、
沈没の際はそこから批難していたのではないか。
 短時間に沈没し止むを得なかったという見解もあるが、そのスポットを避ける乗客の誘
導ができなかったのであろうか。
 なお、「中村船長は、瑞艇甲板(救命ボートの出し入れなどを行う甲板)に出て衝突後の
状況を目撃した後、具体的な指示を与えることなく、ブリッジ(運転室)に引きこもり紫雲丸
とともに殉職した」とされている。
 当時の船員法12条には、
「船長は、自己の指揮する船舶に急迫した危険があるときは、人名の救助並びに船舶及
び積荷の救助に必要な手段を尽くし、旅客、海員、その他船内にあるものを去らせた後で
なければ、自己の指揮する船舶を去ってはならない」
という規定があった。
 紫雲丸事故では、沈没時に旅客が船内に残っていたわけであるから、中村船長は、法
律上も殉死を余儀なくされる立場にあったといえる。中村船長はそのことを知り、殉死を決
意されたのであろうか。
 この規定は、船長の責任の大きさを示す規定であろうが、逆に緊急時における船長の指
揮活動を制約する側面を持っていたといえよう。
 また、現場の最終責任を船長がとるのは当然としても、安全の環境を整備するのは、ス
タッフの役割である。
 この規定の、「旅客、海員以下」のところは、昭和45年に削除され現在はない。

 以上が、紫雲丸事件についての私たちの疑問点である。
 そして、これらの問題は、トップやスタッフが「その重要性を認識し、実践する方針を明確
にすれば」、比較的簡単に実現できるものばかりである。
 なぜそれが実現できなかったのか。当時を記す書物や新聞記事などから判断すると、当
時の国鉄公社は、官僚的な組織体制、縦割りの技術体制、急進的組合活動、官尊民卑
の驕りなど、数々の問題点を抱えていたように思われる。
 この状況で、安全を守るための組織としての機能が麻痺していたのではないだろうか。
紫雲丸事件は、発生すべくして発生したと思われる。仮に昭和30年5月11日に発生しな
かったとしても、事故は別の日に発生し、別の乗客、そして修学旅行の生徒が、犠牲にな
っていたのではないだろうか。

(二)生産回復に明け暮れていた社会

 紫雲丸事件についての法人としての国鉄の責任は大きいと思う。
 そしてさらに、今歴史を振り返るとき、人命・安全軽視の問題は、実は、企業・官公庁など
を含む当時の日本社会全体に広く存在していたのではないかということを、指摘しなけれ
ばならないと思う。
 当時は戦後10年、日本がようやく戦後の混乱から脱し、復興に向けて必死でもがいてい
た時代である。最重要課題は、経済力の強化であり、物質面での国民生活の回復・向上で
あった。
 日本経済は、昭和25年から28年頃にかけ、急激な復興を遂げた。
 先ず、復興の先端を走ったのは、繊維、セメント、紙・パルプ、肥料などの産業であった。
 さらに、経済復興を促進するためには、基礎産業の生産力の増強が不可欠であった。
 そのために、新しく誕生した日本開発銀行などを通じ、電力、鉄鋼、海運、石炭、機械、
電気などの基礎産業への集中融資が行われた。企業、特に大企業は、その資金で設備
投資をおこない、海外から次々と新技術を導入し、生産力の拡大、合理化に邁進していた
のである。
 その他の産業、そして中小企業においても、復興の波に乗り遅れまいと必死であった。
 要約すれば、当時は日本のすべての組織が、生産力の増強と合理化によって物資の生
産を拡大することに必死であり、安全性や労働者の福利・環境問題などは、無視とはいわ
ないまでも、軽視されていたというのが実態であろう。
 国鉄においても輸送力の強化が強く求められていた。そのために、新船の建造、車両積
載方式の導入、レーダー等新運行機器の導入、などが次々と行われた。そして、新しいダ
イヤが組まれた。
 そして、乗組員は、この新しい状況に対応するための十分な教育を実施されるゆとりもな
く、古い体質を抱えたまま新体性へ組み込まれた。
 安全性が無視されたとはいわないが、輸送力増強という大命題のもとで安全性が考えら
れたのではなかろうか。
 紫雲丸事故は、人の輸送を担当し、人命・安全の尊重を絶対視すべき国鉄が、管理能力
の欠如から、生産拡大主義の社会情勢に巻き込まれて発生したとみることができるのでは
ないだろうか。
 そして、他にもさまざまな事故が発生していたのである。
 紫雲丸事件前後の主な海難事故だけをとりあげても次のとおりである。そして、その原
因は、いずれも定員超過や気象判断ミスなど、安全性軽視の色彩が強いものである。

昭和29(1954年)4月  青函連絡船で洞爺丸など沈没。死亡者1,430人(原因は気象
判断)
昭和32年(1957年)4月 瀬戸田・尾道間で第五北川丸沈没。死亡者119人(原因は定
員超過)
昭和33年(1958年)1月 紀州沖で南海丸沈没。死亡者167人(原因は気象判断)

 陸上部門でも、交通災害や炭鉱爆発事故を中心とする安全衛生災害が発生し、数多くの
犠牲者を出した。炭鉱爆発事故は、第二次大戦中における設備の荒廃のまま生産が続行
されたため、落盤、側壁の崩壊、坑内での鉱車の逸走・脱線、ガス爆発等の事故が日常茶
飯事のように発生していた。

(三)公害問題の顕在化

 そして、これらの安全の問題と同根であるものが「環境の問題」であった。
 この問題は、企業内部では安全衛生災害となり、そして社会全体に波及して、公害問題
となったといえる。
 社会問題としての公害は、昭和28年(1953年)に発見された水俣病に始まるといわれ
る。厚生省の食品衛生調査会は、水俣病の原因を有機水銀であると答申したが、この答
申は無視され、厚生省命令で解散されたのである。
 昭和35年頃より日本は高度成長期に入る。経済の規模は毎年10パーセント以上のス
ピードで拡大し、国民の所得が飛躍的に増大する。
 公害問題は、この高度成長期において、日本の社会問題として顕在化し、長い間、多く
の人の生命や環境を破壊する深刻な問題を生んだ。
 太平洋岸を中心に、次々とコンビナートが造成され、大工場が建設される。天然の砂浜
は姿を消し、煙突が林立し大気を汚染する。そして汚れた排水を川や海に流す。やがて、
伊勢湾の魚の汚染、四日市喘息、新潟水俣病、川崎喘息、田子の浦ヘドロ問題など、数
々の問題が発生する。
 ダム建設や海湾埋め立てなど、自然環境を無視した公共投資も次々と行われる。
 車の激増により、排気ガス公害も深刻な問題となったのである。

(四)事故から50年

 このようにみてくると、紫雲丸事故の背後には、人命、安全そして環境などを軽視する物
質重視の思想と、国鉄における官僚主義・無責任主義があったといえるのではないだろう
か。
 事故から50年。
 紫雲丸事件の後、国鉄は大きな海難事故は発生させていない。そして、33年後の昭和
63年(1988年)に、宇高連絡船、青函連絡船が廃止され、国鉄の主な連絡船航路はなく
なった。
 鉄道事故については、昭和37年(1962年)の常磐線三河島事故(死者160人)、昭和
38年の東海道線鶴見事故(死者161人)に代表されるように多くのの事故を発生させた。
 昭和39年(1964年)には、東海道新幹線開通。さいわい、新幹線での事故は少ない。
 そして、昭和62年(1987年)、国鉄は、国民に多くの債務負担を残し、分割・民営化さ
れた。
 分割・民営化後のJR各社の経営は、JR四国など厳しいところもあるが、概ね、順調のよ
うである。ただし、JR各社の収益好転は、債務棚上げと赤字路線切り離しによる当然の
結果であるとの評価もある。内部の組織運営の実態は私たちにはわからないが、外部に
現れる従業員の態度やサービスなどは、以前と較べれば改善されたと思う。民間会社と
なった以上、官僚主義がはびこれば競争に勝てないであろう。

 公害問題についての取り組みがやや体系的に行われるようになったのは、高度経済成
長の終焉期とされる昭和45年(1970年)、昭和46年頃以降である。
 そのころ、世論の批判に対応して、ようやく公害対策基本法の改訂や環境庁の発足が
実施されたのである。
 その後、安全や環境に関する法制は整備され、技術も進歩し、企業における対策も進ん
できた。労働環境は改善され、労働災害も減少してきた。うす黒く汚れていた工業地帯の
空も少しは綺麗になってきた。都市部の河川にも鮭が戻ってきたという話をきく。
 事件当時の安全・環境軽視の傾向はずいぶんと改善され、対策技術も進歩し、現在では、
紫雲丸事故のような事故は発生しない社会状況ができたかのようである。
 しかし、生命や安全を脅かす事故は、自動車・航空機・船舶などによる交通事故、理由
のない殺人・傷害、テロなど、姿を変え、減少することなく発生している。また、自殺者も増
加している。
 このことをどのように考えればよいのであろうか。
 安全・環境などについての周辺状況が整備されても、社会、そして人々の心の奥に潜む
闇は、解消されないということであろうか。
 この50年の間に、工業化が進展し、私たち日本人の生活は、便利で裕福になった。
 しかし、あいかわらず未解決のまま残っているもの、また、50年前に存在していたよい
もので失われてしまったもの、があるのではないだろうか。
 物質重視の考え方や官僚主義は、なくなったとはいえない。
 都市にはコンクリートのビルが林立し、住居は高層化・区画化され、人々の交流は希薄
化する傾向にある。田舎の河川や道路も人工化が進み、昔のような自然のなかでの生活
は失われつつある。
 少子化が進行し、子供たちは、過保護で育ったまま、成人を迎える。
 個人主義の思想が蔓延し、政治や社会への関心、そして健全な市民社会を共に作りあげ
ようという理念は薄れつつある。
 これらのことが、人々の心に歪を生み、多くの事故を発生させる原因となっているのでは
ないだろうか。





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