第六部   事件後の学校



(一)故郷での再会

 5月11日(水)夕刻に高松駅を発った私たち生存者は、午後10時前伊予三芳駅に着い
た。
 その夜は、冷たい五月雨が降っていたが、駅には大勢の人が迎えに来ていた。
 家族は、抱きかかえるようにして、改札から出てきた私たちを迎えた。
 しかし、喜びを露にするものは少なく、駅は意外と静かであった。そのとき既に、数名の
犠牲者が出たことが、家族にも伝わっていたのである。
 三芳駅からバスで家まで運んでもらった。家では、祖父母、兄弟、親戚の人たちが大勢
で待っており、
「よかった!よかった!」
と私たちを迎え入れてくれた。

 家族と再開できた喜びの一方で、多くの友達が一緒に戻れなかったことに対する不安が
脳裏を去らなかった。その夜、疲労の極にあったが、布団に入ったあとも眠ることができ
なかった。
 この日、生存者が帰郷したのとほぼ同時刻に、渡辺麻子さん、河野タミ子さん、青野琴
之さん、長井巧くん、近藤和子さん、四宮照美さん、篠塚貞子さんの7遺体が帰郷したそ
うである。私たちはそのことは知らなかった。
 5月12日(木)は、学校は一斉休校となった。
 入院加療中6名のうち、芥川勉、日野(山内)和子の2名はこの日に無事帰郷できた。
 そして、この日は、早朝の午前3時から夕刻の午後7時まで、17名の遺体が、次々と
壬生川駅または三芳駅に戻ってきた。

 渡辺鬼志松くん 武田美鈴さん 渡辺美智子さん 武田貞子さん 青野節子さん
 長井タケミさん 日和佐辰雄くん 山内美智子さん 越智久美子さん 長井秀美さん
 管恵美子さん 青野忠義氏(PTA会長) 青野恭子さん 山内淑江さん
 近藤ミヤ子さん 吉本フジ子さん 竹田シズ子さん

 遺体の運送には、客車の特定の車両が使用された。ボックス・シートの背もたれの上に
戸板を渡し、その上に棺に納められた遺体を安置し、車掌が監視しながら運搬された。
 駅に着くと、棺の両端を車掌が持ち、ご遺族が付き添って改札まで出てきた。
 駅の構内そして構外も、先生、友人、親戚その他多くの人々の出迎えで一杯であった。
 全員合掌して遺体を迎えた。駅の方々から忍び泣きの声が漏れた。
 遺体は、駅から自宅までトラックで運ばれ、祖父母や兄弟、近所の人達などと悲しい対
面をした。

 両親は、子供を棺から出し、新しい服を着せ、化粧をして布団に寝かせた。
 この夜、それぞれの家庭で通夜の法要がおこなわれた。
 私たちは、近所の友達の通夜に参列した。
 亡くなった友達のご両親や遺族は、私たちの姿を見かけると
「○○ちゃん、生きて返ってよかったね。○○も一緒に帰ってこれたらよかったのに・・・・・」
と、涙を溜めながら言った。
 ご遺族の許しを得て、私たちは、棺に入った友達と対面し、唇に水を滴らせた。
 亡き友の顔は蒼白で透き通るように清んでいた。私たちは、滴り落ちる涙を留めること
ができなかった。
 青野会長は、両手で数珠を組んで眠られていた。顔は蒼白であったが、精悍な顔立ちは
生前のままであった。

(二)登校、友達のいない机そして葬儀参列

 5月13日(金曜日)。休校が解かれ、私たち6年生の生存者も登校した。
 学校に着き、不安な気持で教室に入ると、たくさんの机に白い花束が置かれている。
 死亡の確認された同級生の机であった。誰の机であるかは瞬時に分った。そのとき友達
を失った寂しさと悲しさがどっとこみ上げてきた。
 担任の佐伯、児玉両先生は、高松で行方不明者の捜査にあたられ、未だ帰郷されていな
かった。松・梅両組の生徒とも松組の教室に集合するよう指示があり、代理の先生から、
労わりのことばとともに、確認されている死亡者、行方不明者などについて説明があった。
 亡くなった友達、行方不明の友達を全員正式に確認したのは、この朝が最初であった。
 この日、合計23件の葬儀が行われ、先生、私たちを含む全校児童が部落ごとにわか
れて参列した。
 葬儀の時間は、山間の方から次のとおりである。この日は、一日中、村中が線香の煙と
嗚咽に覆われた。

(黒谷)
長井巧君 長井秀美さん 長井タケミさん 午後2時公民館
(河之内)
渡辺美智子さん 渡辺麻子さん 篠塚貞子さん 午後4時公引地の地蔵さん
山内淑江さん 午後4時自宅
山内美智子さん 午後7時自宅
(旦之上)
青野琴之さん 午前11時自宅
渡辺鬼志松くん 午後2時円満寺
河野多美子さん 午後3時自宅
青野節子さん 午後3時自宅
青野忠義氏、青野恭子さん 午後6時30円満寺
近藤ミヤ子さん 午後4時自宅
近藤和子さん 午後5時自宅
(大野)
吉本フジ子さん 午後5時自宅
(宮之内)
日和佐辰雄くん 午後1時自宅
(実報寺)
武田美鈴さん 管恵美子さん 竹田静子さん 四之宮輝美さん 午後3時実報寺
武田貞子さん 午後3時長綱

 5月14日(土曜日)は、川上康くんの遺体が戻ってきた。そして5人のお葬式が行われ
た。

(旦之上)
青野エツ子さん 午後3時30分自宅
長井洋くん 午後2時自宅
川上康くん 午後5時30分自宅
(河之内)
越智久美子さん 午後2時自宅
山内恒子さん 午後2時自宅

 当日、高松鉄道病院で入院加療中であった西川(目見田)幸枝、阿部(管)瑞江の2名
が帰郷した。

(三)授業再開

 5月16日(月)授業が再開された。しかし、学校は事件への対応で騒然としており、担
任の先生は帰郷しておらず、私たちも、まだ勉強をする気分からほど遠かった。
 この頃から、学校に、リュックや帽子や靴など、収容された遭難者の品物が次々と送ら
れてきた。先生たちは、それを整理し、犠牲者の遺品については遺族のもとに届けた。私
たちのところへもリュックなどが少し戻ってきたが、嬉しいという感情は湧かなかった。
 先生たちは全員で遺族宅を弔問された。

 5月17日(火) 全員レントゲン検診
 5月18日(水) 午前7時52分、志賀重子さんの遺体三芳駅に到着。午後3時より自宅
にて葬儀。先生たちは全員葬儀に参列された。
 高松鉄道病院で入院加療中であった高橋(飯尾)民子、和気紘美が帰郷した。
 5月19日(木) 国鉄高松病院より医師2名と看護婦4名が来校し、全員の健康診断を
行った。
 山内浩視、高橋(飯尾)民子、和気紘美、西川(目見田)幸恵の4名は、肝臓に異常が発
見され、県立今治病院に長期入院することになった。4名が退院できたのはお盆明けであ
り、授業参加は2学期からとなった。
 5月20日(金) 遭難時の状況を作文に綴る。
 5月22日(日) 午前11時29分三芳駅着の列車で、栗原秀雄くんの遺体が帰郷した。
 先生と私たち全員が三芳駅まで迎えに行った。
 事件発生後高松にて事故対応に当たられていた宮田校長、川上教頭と担任の佐伯先生
が帰郷された。
 5月23日(月) 午後3時より実報寺にて栗原秀雄君の葬儀が行なわれ、先生と私たち
全員が参列した。同級生を代表して黒河稔が弔辞を述べた。
 葬儀の最中に、突然西の空が暗くなり、雷が激しく鳴り響き、季節はずれの霰が降った。
 事故や彼の死に対し、悲しみをとおり越し、激しく憤っているようであった。
 この葬儀が犠牲者30人の最後の葬儀であった。

(四)合同慰霊祭

 犠牲者の合同慰霊祭が、5月31日(火)小学校において実施されることが決定し、5月
28日に校庭に祭壇が設けられた。
 先生や三芳町関係者の方などが、徹夜に近い状態で、事故への対応と慰霊祭の準備
にあたられた。
 私たちも、学校の大掃除、式場作りなどを手伝い、慰霊祭で歌う哀悼歌の練習を行った。
 当日の参列者は、ご遺族、村人、近隣市町村の関係者など約4千名であり、校庭は溢れ
んばかりの人垣であった。新聞・ラジオ・テレビなど多くの報道関係者も集まった。
 午後1時、周桑仏教団の僧侶40名の読経が流れるなか、しめやかに慰霊祭が開始され
た。
                    
   (慰霊祭式次第)   
     
   ① 開会の辞
   ② 法式開始
   ③ 祭主祭文
   ④ 喪主焼香
   ⑤ 詠歌奉納
   ⑥ 来賓弔辞
   ⑦ 弔辞捧呈及び焼香
   ⑧ 弔電
   ⑨ 追悼歌奉唱
   ⑩ 祭主挨拶
   ⑪ 喪主挨拶
   ⑫ 閉会の辞


 祭主である渡辺諸吉三芳町長の「祭文」朗読のあと、犠牲者30名の各喪主が焼香を行
った。そのあと、詠歌奉納、つづいて、来賓から弔辞が捧呈された。
 国鉄総裁十河信二氏(代理)、四国鉄道管理局長間瀬幸次郎氏、文部大臣松村謙三氏
(代理)、愛媛県知事久松定武氏なども、参列され弔辞を捧呈された。
 弔辞の一つとして、同級生代表の長井武敏が亡き友の思い出を綴った作文を読み、亡く
なった同級生とPTA会長の名前を一人一人読みあげた。
 慰霊祭の最後に、喪主を代表して長井友正氏(故人。長井洋くんのお父さん)が挨拶を
された。
 子供を失った悲しみとともに、事故発生以来の関係者の尽力に対する感謝のことばを静
かに述べられた。悲しみを抑えた立派な挨拶であったが、ご遺族の深い悲しみを一層際立
たせることとなった。

(五)先生の苦しみ

 事故遭難の結果は、遭難者83名のうち、死亡者30名(生徒29名及びPTA会長)、生
存者53名(生徒48名、引率教員4名、父兄1名)であった。
 偶然の結果ではあるが、PTA会長が死亡され、先生4名が全員生存されたことが、悲
しみに打ちひしがれる遺族たちの心に、複雑な波紋を生じさせることとなった。
 4名の先生は、校長の宮田伍一先生(故人)、担任の佐伯豊雄先生、児玉佩三先生(故
人)及び女性教員として特別に参加された青野美恵子先生であった。
 事故後、4名の先生は高松に残り、極限の疲労と苦しみを押し殺して対応にあたられた。
 児玉先生と青野先生は5月20日に、宮田校長と佐伯先生は5月22日に、いったん帰
郷され、直ちに遺族宅を弔問し、お詫びの言葉を述べられた。その後、何度も遺族宅を弔
問されたが、遺族のなかには、感情を抑えきれず、冷たい言葉を吐くものがあったそうで
ある。
 村人たちのなかにも、PTA会長への賞賛と先生への批難を口にするものがあった。
 この批難を別にしても、大勢の教え子を亡くし自分たちが生き残ったという思いが、その
後長く、先生たちの心を苦しめたのだと思う。

 宮田校長先生は、5月30日の合同慰霊祭の弔辞にて、断腸の思いを次のように述べら
れている。
「・…思い出深き校庭に静かに安らかに眠る皆様、どうか私たちを許してください。私たち
の不行届のすべてをお許してください。私たちはすべての社会のいかなるお叱りをも、い
かなるおとがめをも有難く受けております。又あらゆる世の如何なるそしりをも受けなく
てはならぬ私達であります。ただし、ただただあの恐ろしき日の私達のすべての行いを、
その後の悩ましき私達の気持を、また今日の日の果てしなき苦しみを、本当に知っていた
だける方こそは純真なあなた達、清浄なあなた達の御霊であると信じております。
・・・・
私は、あなた達29人とPTA会長様の御霊位を私の家の仏壇に納め、朝な夕なに心から
回向を捧げ、あなた達のご冥福を一生涯祈り続けたいと思っています。私の子として、私
に先立った愛し子として終生懇ろにお慰め申し上げたいと決心しております。
青野忠義様、不甲斐なく生還して、貴方様ならびに29柱の教え子達の霊前にひれ伏して
ご弔辞申し上げます。不運なる宿命の宮田をお叱り下さい。愛し子とともに逝かれました
貴方様、一瞬にして、一家の柱と子宝を失われました貴方様のご遺族に対し、ただひた
すらに私達の深き罪業をお詫び申し上げますとともに、幼き二十九名の仏達がつつがな
く黄泉の旅をつづけますようお導きのほどひとえにお願い申し上げます。
粛然として声無き慰霊の祭壇に跪き、万感胸をつきて現し心を知らず、ただねんごろに御
仏のご冥福をお祈りいたしますとともに、ご両親様はじめご遺族の方々に対し、あらゆる
社会のすべての方々に対し、業深き悪縁の罪の数々を万謝いたし、ここに謹んで弔辞と
致します」


 担任の佐伯、児玉両先生は、お二人ともまじめで温厚な人柄の先生であった。また、青
野先生はやさしい先生で、図画、裁縫を担当され女生徒に慕われていた。
 高松から戻り登校されたとき、先生方はすっかり憔悴されており、まるで生気のないお
顔をされていた。先生方は、その後も元気を回復されず、当時まだ30代であったのに、
暫くの間に頭髪が真っ白になってしまった。
 合同慰霊祭終了後1ヶ月たった6月30日に宮田校長が、8月26日に青野先生が転校
された。
 佐伯、児玉両先生は、私たちの小学校卒業まで担任され、その後転校された。
 事件以来転校まで、そして転校後も、先生方は、極限の苦しみを味わわれたに違いな
い。
 思えば、先生方も悲しい運命の犠牲者であり、本当にお気の毒であった。
 私たち遭難者の体験からすれば、先生方を責めることはできないと思う。
 衝突直後の乗組員の発言は、
「大丈夫だから安心して静かにしなさい」
ということであった。この発言がある以上、指導者として、生徒を強引に甲板に誘導するこ
とは、控えなければならない。
「逃げる準備をしておきなさい」
と言うことしかできない。そして、その直後船は大きく傾き、沈没したのである。
 沈没後助かるか否かは、まったくの偶然であり、子供も大人も関係ない。先生たちは、
自分が偶然助かった後、必死で救助活動をされたと思うが、救える生徒の数は少ない。そ
れは、事故現場の状況から仕方のないことである。
 突然、何の咎もない子供そして夫を奪われたご遺族の怒り、それは、事故を発生させた
国鉄に対する怒りであったが、身近にある学校、そして先生たちを通じて訴えられた面が
あったのだ思う。
 6月の末、宮田校長の後任に、庄内村ご出身で、以前庄内小学校の教頭をされていた山
内源三郎先生が赴任され、中心となって、その後の対応に当たられることになった。
 事件に際しては、庄内小学校の先生、近隣の学校の先生、教育委員会の方々、三芳町
役場の関係者の方々などが、事故への対応、合同慰霊祭の開催、追悼録の編集、みたま
の塔の建立などにひとかたならぬご尽力、ご苦労をされたのである。

(六)寂しさ消えず

 合同慰霊祭も終了し、担任の先生も揃われたが、私たちは、元気を回復するにはほど遠
い状態であった。とりわけ、女子生徒の落胆と悲しみは格別であった。40名中23名が
死亡し、多くの女子生徒が仲の良かった友達を失ってしまった。
 亡くなった友達の机が片付けられた教室は、広々として寂しかった。
 最初のころ、そのうち友達が入院先から帰ってくるのでは、という幻想めいた期待もあっ
たが、友達の死という厳しい現実を受け入れなければならなくなった。
 佐伯、児玉両先生は、明るく振舞われようとしたが、ぬぐいきれない先生の悲しみと苦し
みのお気持は、私たちの目にも明らかであった。

6月 6日(月) 犠牲者に送るため、校庭の隅にグラジオラスの球根を植える。
6月 9日(木) 先生と6年生全員でお墓参り。
6月10日(金) 先生と6年生全員でお墓参り。
6月11日(土) 事件後1ヶ月。朝礼で犠牲者の冥福を祈り1分間の黙祷。
6月13日(月) 高松にて全国合同慰霊祭。宮田校長以下4名の先生参列。
6月20日(月) 生存者10名再度レントゲン検診を受ける。
6月28日(火) 死亡者の中陰につき、サイレンを合図に各教室にて1分間の黙祷。
          生徒は部落ごとに墓参り。先生は全員遺族弔問。仏像及びお供物を持参

7月 3日(日) 午後1時より講堂にて先生と遺族との懇談会が開催される。
7月11日(月) 事件発生後2ヶ月。放課後先生及び生徒部落ごとに墓参り。
7月12日(火) 先生と生存者父兄会の会合開催される。
7月20日(水) 高松国鉄病院より副院長、小児医長、看護婦2名来校。生存者の健康
          状態を健診。
7月22日(金) 全員壬生川町保健所にてレントゲン撮影。
8月11日(木) 事件発生後3ヶ月。放課後先生及び生徒部落ごとに墓参り。
9月12日(月) 事件発生後4ヶ月。放課後先生及び生徒部落ごとに墓参り。
10月12日(水) 秋季運動会。亡き友の写真をバルコニーに安置して実施。
10月30日(水) 大阪における教育祭に遺族47名、山内校長先生および同級生代表
           で高木(櫛部)清子、多田(四之宮)明美(故人)参列。
11月 7日(月) 十河国鉄総裁来校
11月11日(金) 事件発生後6ヶ月、放課後先生及び生徒部落ごとに墓参り。
12月12日(月) 事件発生後7ヶ月、放課後先生及び生徒部落ごとに墓参り。

(七)全国からの励まし

 事件を知った全国の人々から、励ましの手紙や電報、折鶴、弔慰金などを送っていただ
いた。
 合同慰霊祭がマスコミで報道されたことで、6月以降ますます増加した。
 私たちもお礼の手紙などを書いた。
 同級生のなかには、北海道の方と文通を開始し、すずらんの花を贈っていただいた者、
大三島の杜氏の方に島に招待され、清酒醸造の現場をみせていただいた者など、貴重な
体験をした者もいた。
 前年の10月に相模湖で遊覧船が沈没し、22名の同級生を亡くした麻布学園の中学生
からも、励ましの手紙と品物をいただいた。
 私たちにとってうれしい思い出の一つは、愛媛県大洲市大洲小学校の同級生に招待して
いただいたことである。
 10月の澄みきった秋晴れの日であった。大洲小学校を訪問、教室で対面した後、近くを
流れる肱川に行き、一緒にお弁当を食べた。同級生の少なくなってしまった私たちにとっ
て新しい友達ができたことは、何よりの喜びであった。

(八)「みたまの塔」完成

 庄内小学校の先生、三芳町の関係者、教育委員会関係者、父兄など多数の方のご尽力
により、「みたまの塔」が建立されることが決定した。
 みたまの塔の素材は、香川県庵治の産で、緑灰色の美しい石である。
 庄内村福成寺部落出身の彫刻家、芥川永氏のデザインによるものであり、高さは242
センチメートルである。
 正面の銅版に書かれた「みたまの塔」の字は、国鉄総裁十河信二氏の揮毫によるもので
ある。
 私たちは、分担して、みたまの塔に刻まれる同級生の氏名を書くことになり、懸命に毛
筆を練習し、習字の先生の指導を受けながら半紙に書いた。この字は、石工の手によって
塔に刻まれた。
 みたまの塔は、事故翌年の昭和31年(1956年)3月29日に完成し、除幕式が行われ
た。
 塔の正面左側には次の言葉が刻まれ、裏面には犠牲者の氏名が刻まれている。
         
         三十のみたま来ませ時鳥

「昭和三十年五月十一日修学旅行の途次高松沖合で突如紫雲丸沈没の惨事に際会しP
TA会長及び児童二十九名の尊い生命を失った 期せずして慰霊の声が起こり児童父兄教
組有志の真心により塔を建てて記念する」

 校庭の東北端にあるみたまの塔は、50年を経た今も、姿を変えず静かに佇んでいる。
 季節の花が折々に活けられ、小学生の作品であろう、折鶴などが飾られている。
 みたまの塔は、これからも永遠に、事件のことを後輩の小学生達に語り継いでゆくであ
ろう。
               

(九)卒業そして河北中学校進学

 紫雲丸事件発生後の小学校での生活は、何等かのかたちで、事件が影響していた。
 事件の遭難者であるということで、両親も、先生も、学校も、私たちを養護することが
多かった。その分、私たちは、事件から羽ばたくことができなかったといえる。
 小学校卒業式は、昭和31年3月15日であった。
 事件の傷跡が消えぬままの寂しい卒業式であった。山内校長先生や来賓の方から、
「亡くなった友達の分まで頑張って下さい」
との訓示があった。
 卒業式の記念撮影は、事件のことをはばかり中庭で行われた。
 事件の一つの区切りは、河北中学校進学であった。
 昭和31年(1956年)4月、私たちは河北中学校に入学した
 河北中学校は、楠河小学校・三芳小学校・庄内小学校3校の生徒が合流していた。その
時の入学者数は、それぞれ、110名、44名、50名であった。庄内小学校は、本来なら
79名であったが、29名が犠牲になり50名となったのである。
 楠河地区は、燧灘に面しており、漁師の子供が多く活発な生徒が多かった。毎秋河北中
学校で行われる運動会には、3小学校対抗のリレーがあったが、楠河地区が断然トップで
あった。
 私たちは、新しい友達を得るとともに、いろんな面で競争にも直面した。楠河地区の悪
童に苛められる者もいた。
 とにかく、新しい生活がスタートした。多くのものがクラブ活動に参加し、勉強とスポーツ
に励んだ。
 卒業式の訓示のとおり、
「亡くなった友達のためにも頑張らなければならない」
その思いが、いつも私たちの胸中にあった。



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