第七部 ご遺族の悲しみ (一)突然負わされた宿命 紫雲丸事件の犠牲となった29名の同級生のご両親は、既に多くの方が他界された。 平成16年(2004年)2月現在、生存されていることが確認できた方は、父親2名そして 母親は9名である。 ご生存の方は、ほとんどの方が、85歳以上である。 私たち生存者の両親も、大半が、既に他界した。 事故から50年。当時、私たちは11歳(一部のものが12歳)、両親は30台半ばから40 台半ばであったから、亡くなることは自然の摂理である。 事件当時、亡き友29名のお母さんは、全員健在であった。 お父さんについては、29名のうち5名の方は、既に第2次世界大戦で戦死されていた。 そして、青野恭子さんのお父さん青野忠義氏は、恭子さんとともに紫雲丸事故で死亡 された。 人生において、肉親を失うことほど悲しいことはないが、とりわけ、何の咎もない子供の 命を一方的に奪われてしまったご両親の悲しみと怒りは、いかばかりであったろうか。 青野政子さん(故人)は、ご主人と長女を同時に失われたのである。 長い時の経過が、この悲しみと怒りを和らげることになったであろうか。 さまざまな事故についてそうであるが、加害者は法律で罰せられることになっているが、 「過失」と認められる場合は、その罪は極めて軽い。そして、加害者の背後にある組織は、 国家を含め、道徳的批難を浴び、損害賠償などの経済的負担を被るとしても、刑事上の罪 は問われない場合が多い。 そして、やがて事件のことは人々の記憶から消えていく。 息子さん、娘さんそしてご主人の突然の死は、ご遺族の人生にさまざまな影響を与えた。 それぞれに、突然負わされた不合理な人生の宿命であった。 善意ある人々の慰めや援助が、ご遺族の悲しみを和らげることがあったとしても、事件は 最終的には、ご遺族の心のなかで処理されなければならなかったであろう。 追悼録に記載された事件当時のご遺族の手記を数通、生存者の方はご本人の、亡くなら れた方はご家族の、ご了解を得てここに紹介し、ご遺族の悲しみの記録としたい。 (二)悲しみの手記 「洋の面影」 長井美和湖さん (長井美和湖さん(現在土居市)は、次男の洋くんを失った。) 5月11日。なんという悲しい忌まわしい日であったでしょうか。思っただけでも胸が一杯 になります。あの霧深い瀬戸の海。どんなにか無念な苦しい思いであったことでしょう。 人生の希望も力も失い、この悲しみ、恨みはどこへ訴えようもなく、何時までもこの気持 は続くでしょう。 遺体のあがるまで、狂ったように海辺をさ迷い、ようやくあいまみえた洋。 親としてせめてもの慰めは、その顔に何の苦悶のあとも見えず、崇高なまでに安らかに 眠っていたことでした。 犬が好きで、よく叔父さんと山へ鳥うちに行きました。どんな寒い朝でも、暗いうちに とび起きて、お弁当を手に喜びいさんで行ったものでした。近所にお友達がなかったため よく学校へ遊びに行き、野球やピンポンに興じ、夕方には無邪気な顔をほてらせながら 「勝った。勝った」 と話したものです。 一人で鋸や鎌を持ち出して木を削ったり、電気類をいじるのが好きで、電池を買ってきて ベルを鳴らしたり、モーターを回したりして、自分の好きなことでしたら、夜遅くまで夢中で やっていました。 「中学校へもうじきいくのだから、一生懸命勉強しなくては」 と、私が何度も申しましたら、この頃はよく黙って勉強しているようでした。皆が 「雨が降るぞ!」 とおだてますと、きまり悪そうに、目をくるくるさせてちょっと横を向く癖がありました。 それでも、 「えらいね。一生懸命勉強してよい学校に入学しないとね」 と言いますと、 「うん」 といって、だいぶ勉強に興味を持つようになってくれて、心ひそかに喜んでいましたのに。 もう、何もかもが悲しい思い出になってしまい、この文を綴りながらも、悲しみと苦痛で胸 が張り裂けそうです。 でも、こんなことを何時までも思っていて、亡き洋の冥福を祈ることになるだろうかと、心静 かに考えるとき、すべては前世からの因縁だと諦めの心に帰り、二十九人のお友達と仲良 く、この世の苦しみを知らない美しい清らかな心で、極楽浄土へ行ってくれたことと信じ、 30の御霊のご冥福を心から祈っています。 なお、末筆ながら、このたびの惨事に、全国各地から数々のご厚志、ご同情を賜り、さら に合同慰霊祭など、種々のご供養をしていただきましたことは、遺族として忘れることはで きません。また、校長先生をはじめ、諸先生には、いろいろと心をお痛め下さりお世話く ださいましたことを心から感謝しております。 「辰雄を偲びて」 日和佐フサさん (日和佐フサさん(故人)は、7男の辰雄くんを失った) 5月10日。この日は春日和としてはたいへん暖かい日であった。午後2時ごろ6年生に なる辰雄が飛ぶように帰ってきて「ただ今」と勢いよく言った。 「あら、辰ちゃん今日は早かったね」 というと、 「うん今日は夜汽車でたつので、早く帰って寝ているように先生が言ったの。早かろ」 と言ってにこにこしている。だのに、旅行が嬉しく 「お使いにでも行こか。子守りでもしょうか」 と言いながらじっとしていられないらしく家の中を歩き回っていた。 そして、とうとう大した用でもないのに高田や正法寺へお使いに行った。今思えば、永久 のお別れに言ったのだろうか。また、父親が買ってやった果物やらお菓子やらをたくさん 揃えてやると、 「これみんな僕にくれるん」 と喜んでカバンにしまい、机の中から本を出し、 「このお菓子を食べたらこの好きな本を読むの」 とさも嬉しそうに喜んでいた。 弟の康雄に 「4年生になったらソロバンを習いにいけよ。僕はソロバンやか習いにいかんのじゃ」 と言っているのを台所で聞くともなく聞いていた。何故習わないのだろうかとちょっと不審 に思わぬでもなかったが、そんなことがもうこんなに悲しい思い出になろうとは誰が予期し ていたでしょうか。 やがて夜がきて、出発前30分、うとうとした頃辰雄を起こしてやった。私は何故か眠れ ず時間のくるのをじっと待っていた。辰雄が支度をしている時分、裏の戸を開けたとき、赤 い電燈のようなものを見た。 「ああ辰雄、皆がさそいに来てくれたような」、 「どこに」 と走り出たときは、その赤いものは見えなかった。今にして思えば、あれはもう魂ではなか ったろうか。母親として見送ってやるべきだが、少々頭が痛く父親一人で行ってもらうことに した。 辰雄はと見ると何だか淋しそうだ。 「ああ、母さんが行ってやらないので辰雄は淋しいのかしらん」。 急いで身支度をして一緒に行ってやろうと思い、出ていくともう2人の姿は見えなかった。 けれども、集合の場所へ行くとさすがに子供だ。もう嬉しそうにお友だちと話していたとか。 先生方にもくれぐれもお頼みして帰ったとのこと、まず安心して床についたのでした。 ひとつひとつ見るにつけ、思うにつけ、可哀想に、あの顔が、あの喜んだ姿が、思い起 こされて、胸を締めつけられるように思います。ああもしてやったら、こうもしてやったらよか ったのにと心に残ることばかりです。安らかにねむっておくれ。母さんはいつまでもいつま でもご冥福を祈ります。 「節子は今もささやいてくれる」 家木(青野)礼子さん (家木礼子さん(故人)は、長女の節子さんを失った。戦争で夫をなくした青野礼子 さんにとって、節子さんは「母1人、娘1人」の娘であった。) 薄暗い運動場に止まったトラックの中には、初めて旅に出る嬉しさ一杯の6年生のみん なの顔が、重なり合って賑いでいましたね。 節ちゃんは、その中からかき分けるように乗り出してきて、 「母ちゃん。ここよ。ありがとう。行ってくるよ」 と、出発のクラクションとともに手を振り振り遠ざかった・・・・・。 白い洋服の節ちゃんが行ったまま、それきり帰らなかったあの夜、母ちゃんは、二人で 歌ったり、遊んだり、怒ったり、泣いたりしたこの家に、一人ぼっちで、毎日、明けても暮れ ても、節ちゃんのことばかり思い出して暮らしています。 小さいときの節ちゃんは、それは弱くて、母ちゃんが心細くて泣きたいくらい。その度に、 まだ元気だった新町のおばあちゃんに来てもらったものでした。 それでも、節ちゃんが1年生に入学したときは、母ちゃんが入学するように嬉しかった。 赤いランドセルが大きくて、短いスカートが隠れてしまいそうだったね。にこにこしながら、 学校前の坂道を小走りに下りてくる節ちゃんの姿を、一目、戦死した父ちゃんに見せてあ げたいと、何度思ったことでしょう。 「母ちゃん。あたしより小さい子は二人しかおらんのよ。私は小さい方から3番目」 「私はどうして小さいの」 と、口癖のように言ったね。本家の伯母さんから 「節ちゃんの父ちゃんも母ちゃんも大きいから、今に高くなるよ」 と教えてもらって、とても喜び、それから、父ちゃんのことを毎晩のように、根ほり葉ほり聞く ようになったね。 父ちゃんの顔にそばかすがたくさんあった話をしたら 「私もそばかす出るか知らん」 と顔をさすって、本家の人やみんなによく笑われたね。 あんなに甘えたれの節ちゃんが、6年生になった始めに、こっそり見せてくれたお手紙を みて、あらっと思うほど大人になっているのに、驚嘆したのよ。 「母ちゃん。くよくよしたらつまらんよ。明るく強く前をむいて進みましょう。よい子にはサンタ のおじさんが幸福を持ってきますよ」 なんて。 少し生意気だと思いながらも、母ちゃんは目を大きくして、節ちゃんの児童日記を開けてみ ると、今までと全然違った書き方に、二度びっくり。 「母の帰り今日は遅い。温度計6度。寒いので気の毒」 だとか、 「言い難いことを先生にでもはきはき言える人は勇気のある人だ。だから、照美さんはえら いと思う。私は勇気の足りない子です」 などなど。 寝る時には、ちょっとお乳に触ってみたり、相撲を取って喜んだりする節ちゃん。そして、 「幸せちゅうたら嬉しいこと?そしたら、お菓子もろて嬉しいことは幸せかね?」 ついこの間まで、こんなことを言っていた節ちゃんだったのにね。母ちゃんは、。こんな節 ちゃんをみつけて、どんなに喜んだことでしょう。 1年生のときに、3番目に小さかった節ちゃんが、竹の子のようにずんずん伸びてスカー トが短くなって、お腰が見えそうになったり、ズボンが半ズボンのようになって、母ちゃんは 急に慌てだしたね。清子さんや恭子さんを追い越して、琴之さんともやっと肩が並びそうに なって、あんなに喜んでいた節ちゃんだったのに。 母ちゃんは、今でも、小さい頃から順順につけた柱の目盛りが今ごろはこれくらい伸びてい るだろうかと、そっと鉛筆で刻して見たりするのよ。 クリスマスがきても、お正月がきても、母ちゃんは一人でつまらない。クリスマスには、サ ンタのおじさんや洋子姉さんやみんなから、どっさりプレセントしてもらったね。道ちゃんや淑 江ちゃんと大きいクリスマスツリーのそばで、劇をしたり、踊ったりしてよく遊んだね。 思い出すと一つ一つたまらなくなります。お風呂にいれば、いつも一番に背中を流してく れた節ちゃん。病気をすれば、夜中でもとび起きて、頭を冷やしてくれた節ちゃん。あの可 愛いい、柔らかい手が、今にもおつむを捻ってくれそうで、母ちゃんは枕に顔をうずめて泣い てしまいます。 あんなに優しい可愛いい節ちゃんが、どうして母ちゃんを一人ぽっちにして、逝ってしま ったのかと、節ちゃんの遺体を待って高松の若松屋で一夜を明かしたあの日。それから、 担架でかきだされた、節ちゃんの安らかな顔に取りすがった朝の瞬間。 今も。昨日のことのように胸がうずきます。どんなに恐ろしかったことか。どんなに心細 かったことか。苦しかったでしょうね。可愛そうに。 何の罪があって、あんないたいけな子供たちをこんな目にあわせるかと、天を恨み、地を 呪いたくなります。 あれからもう1年になりそうですね。節ちゃんは、今ごろきっと、お父さんやおじいちゃんの 側で、明るく元気に、大勢のお友達と幸せに暮らしているのでしょうね。 母ちゃんも、寂しいけれども、何とかしてこの空しさから切抜けて、希望をもちたいと願って います。 「母ちゃん。くよくよしたらつまらんよ!明るく強く前をむいて元気に進む子には、サンタクロ ースのおじさんが幸福を持ってきてくれるよ!」 そういって、緑のスカートをはいた節ちゃんが、好きだった花を一杯持って、母ちゃんの 耳元でささやいてくれます。 節ちゃんは、いつでも母ちゃんのそばにいるね。 (注) 手記中の「照美さん」、「清子さん」、「恭子さん」、「琴之さん」は、それぞれ同級生の 四之宮照美さん、高木(櫛部)清子、青野恭子さん、青野琴之さんである。四之宮照美さん 青野恭子さん、青野琴之さんは事件で死亡した。 「道ちゃん」、「淑江ちゃん」は節子さんの近所の友達である。 「久美子を偲んで」 越智みきよさん(故人) (越智みきよさん(故人)は3女の久美子さんを失った。) 昭和18年に久美子が生まれて翌年、おばあちゃんが中風症で床に着いてしまいました。 それからの久美子は、寝ているおばあちゃんの側で育ってきたといってもよいほどで、お ばあちゃんの用足しをするようになり、おばあちゃんは、余計に可愛いく思っていたようでし た。そのおばあちゃんも、七年の闘病生活のあと他界してしまいました。 姉妹とはいっても、勉強ばかりしている姉の紀子とは正反対で、学校の勉強はさっさと 片付けて、お使いや家の手伝や子守が好きでした。小さな体に大きな弟を背負って遊びま わり、近所の人からも感心されていました。 旅行の前日、先生が家庭訪問に来られたとき、先生を待つため、予定通り手伝いがはか どらなかったことを気にして、 「旅行に行っても、一晩泊まったら帰るけん、また帰って手伝うわい」 といじらしい言葉に、私たちは顔を見合わせたのでした。 最も楽しいはずの修学旅行が、死出の旅路になろうとは誰が想像したでしょう。 兄にむかって、 「宏兄ちゃん。帰りは駅まで迎えにきてよ。来んかったら、久美子いつまでも待ちよるんじゃ けん」 と言ったのも、虫の知らせだったのでしょうか。 入浴中の父親に別れを告げ、私と夜半の道を学校へ。途中 「お母ちゃん背負ってや。都ちゃんも負われていくと言うとったけん」 と甘えました。 今生の別れを知っていたのでしょうか。それを、幼子の戯れとしてきいてやらなかったこ とが、いまだに私の心を痛めます。 「琴平で自由行動のとき道に迷うたらどうしようかしらん」 「船、沈めせんのう」 とつぶやいていたことも何か予感があったのでしょうか。 今思い出すと、両頬を伝う涙をぬぐいきれません。 二度とかえらぬ久美ちゃん。「みたまの塔」とともに母校の庭にいつまでも安らかに眠って ください。そして小さい弟や妹たちを導いてやってください。 母はそればかりを祈っています。 (注)手期中の「都さん」は、同級生の佐伯(越知)都である。 「今日なき貞子ちゃん」 武田クリ子さん(故人) (武田クリ子さん(故人)は3女の貞子さんを失った。) 5年生も済んで春の休みには、貞子は毎日自転車の練習に夢中であった。 「母さん。母さん。見よってよ。うち、上に乗り出したんよ」。 ぎこちない乗り方ではあったが、それでもサドルに腰を下ろして、短い足で体を曲げながら 風に髪をなびかせて、愉快そうに乗る姿が今も脳裏から離れない。 「自転車に乗り出したから、うち、どこにでもお使いに行ってあげる。父ちゃん、タバコ買っ てこうか」。 本当にタバコ買いの仕事は貞子の仕事であった。 「母さん。六年生になったら旅行に行くんよ。松山だろうか。高松だろうか。兄ちゃんも高 松へ行ったから、うちも高松じゃわいね」。 修学旅行をこのように指折り数えて待っていた。いよいよ旅行が近づくと、 「母ちゃん。服はどれ着るの。靴はパンプス買ってよ。禎ちゃんも、幸ちゃんにもお土産買っ てきてあげようわい。父ちゃんにはええタバコ二つ買ってきてあげようわい」 などと胸を弾ませていた。 5月10日、学校から早く帰って旅行の支度を整え、夕飯のときも明日の旅行のことでは しゃぎまわっていた。 「貞子、早く寝んと明日疲れるよ」 と言えば、 「うち、嬉しくて寝られんのよ。船に乗るんよ。大きな連絡船よ…・・」 と大喜びでなかなか寝ようとしない。強いて床につかせたが、そこは子供でいつの間にか 深い眠りに落ちていた。 出発時間が近づいたので熟睡しているのを無理に揺り起こす。 セーラー服に白い靴、白い帽子と旅姿も軽やかに庭に立った晴れ姿を見て、姉たちも 「まあ貞子可愛らしい。ええわい。」 というと、にこにこしながら 「いって参ります」 とひときわ大きい声で言いながら、勇みたって門口を出たのであった。 大野(注)まで見送ってやる途々も 「母さん。帰るときも迎えに着てよ」 「ハイハイ」。 私ははっきり約束した。 トラックが出発する時に暗闇の中で、私が 「貞子ちゃん」 と呼ぶと、がやがやとにぎやかな中で 「はーい」 という貞子の声を聞いた。 今考えると大野までの道は、あの子の死出の旅路の見送りであり、最後の 「はーい」 という返事はこの世における貞子の最後の声となったのです。 「母さん帰るときも迎えに着てよ。」 と言った言葉は、私には生涯忘れられない。変わり果てた物言わぬ姿の迎えとなろうとは 誰が考えたでありましょう。 あれから後の悲しみ、嘆き。私の頭は重く、心は乱れて筆を進めることもできません。 (注)文中「大野」は、乗車駅予讃線壬生川駅に向かうための集合場所、大野部落四辻で ある。 「思い出の詩」 青野政子さん(故人) (青野政子さん(故人)は、紫雲丸事件でご主人の忠義氏(PTA会長)と長女の恭 子さんを同時に失った。本手記は恭子さんの思い出を中心に綴られたものである。) 黒いひとみが笑ってる お花も小鳥もうれしそう 春がきたよと笑っている。 台所の片隅にある黒板に、恭子はなにかを一心に書いている。 5月10日、深夜の十二時に学校へ集合し、夜行列車で修学旅行に行く日、私は、恭子と 夫の二人分の支度に懸命であった。 煮物の蓋を取って、味付けをして、「恭子」と何気なく 呼ぶと、踏み台の上にあがって書いていた恭子は振り向いてにっこり笑った。湯気の 立つなかで楽しそうに明るい笑顔で笑った。 鍋に蓋をして、恭子の書いた黒板を見ると、詩と鳥と花の絵を書き終わったところであっ た。 恭子はとても読書好きで、宿題が終わるといつも「少女」を貸したり、借りたりして読んで いた。修学旅行の嬉しさで、時間が待ちきれず、黒板に向かって、思うままに詩を書き、絵 を描いたのであろう。学科のなかでも、図画、習字、作文、家庭科が好きであった。 4年生のときに作文が郡のコンクールに入選し、5年生の時には同じく図画が特選となり 私たちを喜ばせてくれた。 6年生になると修学旅行を何より楽しみにし、指折り数えてその日を待っていたが、いよ いよその日が来た。午後11時30分、PTA会長をしている主人と恭子に連れ添って、私 は小学校へと急いだ。 校庭では、電気の光の中で、旅支度を整えた児童たちがはしゃいで走り回っていた。恭 子は、仲のよい友達に呼ばれてその群れの中に入っていった。児童たちの姿を見ていると、 自分が旅行する子供になったように心が躍った。 いよいよ出発の時間となり、先生の訓示の後、子供たちは、嬉々として農協のトラックに 乗り込んだ。 他の父兄とともにトラックの近くに行くと、恭子が 「母ちゃんここよ!」 と呼ぶ。私が近づいて、 「恭子気をつけて行くのよ!」 と注意すると 「うん」 と肯いて、にっこり笑って、 「母ちゃんあさっての晩帰るけんの」 と言った。 「先生のいうことをよくきいてね」 と念をおすと、 「うん。はよう帰ってくるけんね。待っててよ」 とちょっとしんみり言って、またにっこり笑った。 私が、うなづくと同時にトラックが動き出した。 「母ちゃん!母ちゃん!」 と多くの児童に交じって、恭子が手を振りながら、トラックとともに闇の中に消えていく。続 いて、次のトラックの助手席から、夫の顔がちらりとこちらを振り向いたと思うと、また、闇 の中に消えていった。 私は、生まれて初めて私の懐から旅立った恭子の楽しさなどを想像しながら、その夜は 眠ることができなかった。 翌5月11日朝、ラジオのスイッチを入れると紫雲丸の悲報が伝えられた。私は、はっ と思うと「ガクン」その場に倒れた。間もなく多くの人が心配して駆けつけて下さった。 私は、心のどこかにと 「夫と恭子は大丈夫だ」 と固く信じていたが、夕方役場の方から夫と恭子の死がはっきりと伝えられた。 私は、考える能力も判断力も失い、夫と恭子の死という現実、再び戻ってこないという 事実に、その運命の悲しさに泣けるだけであった。 幾日も続く悲しさのなかに、夫が我が子を救う前に他の子供さんたちを救い、最後に恭 子をひしと抱いて死んでいったということを聞き、その行為が立派であり、恭子も父親と一 緒に死の旅路につけたのだということが私の心を慰めてくれた。 同時に、後に残された主人の若い二人の妹と、四年生になる長男と末娘の将来を思うと 責任の重大さに自分をとり戻さなければならないと思った。 日常の生活に追われつつ、ふと台所の隅に今も残している黒板に目をやると、恭子がに っこり笑っていた姿がはっきり浮かぶのである。 |